其時《そのとき》、頤《あぎと》の下《した》へ手《て》をかけて、片手《かたて》で持《も》つて居《ゐ》た単衣《ひとへ》をふわりと投《な》げて馬《うま》の目《め》を蔽《おほ》ふが否《いな》や、
兎《うさぎ》は躍《をど》つて、仰向《あふむ》けざまに身《み》を飜《ひるがへ》し、妖気《えうき》を籠《こ》めて朦朧《まうろう》とした月《つき》あかりに、前足《まへあし》の間《あひだ》に膚《はだ》が挟《はさま》つたと思《おも》ふと、衣《きぬ》を脱《はづ》して掻取《かいと》りながら下腹《したばら》を衝《つ》と潜《くゞ》つて横《よこ》に抜《ぬ》けて出《で》た。
親仁《おやぢ》は差心得《さしこゝろえ》たものと見《み》える、此《こ》の機《きツ》かけに手綱《たづな》を引《ひ》いたから、馬《うま》はすた/\と健脚《けんきやく》を山路《やまぢ》に上《あ》げた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、――見《み》る間《ま》に眼界《がんかい》を遠《とほ》ざかる。
婦人《をんな》は早《は》や衣服《きもの》を引《ひツ》かけて椽側《えんがは》へ入《はい》つて来《き》て、突然《いきなり》帯《おび》を取《と》らうとすると、白痴《ばか》は惜《を》しさうに押《おさ》へて放《はな》さず、手《て》を上《あ》げて。婦人《をんな》の胸《むね》を圧《おさ》へやうとした。
邪慳《じやけん》に払《はら》ひ退《の》けて、屹《きツ》と睨《にら》むで見《み》せると、其《その》まゝがつくりと頭《かうべ》を垂《た》れた、総《すべ》ての光景《くわうけい》は行燈《あんどう》の火《ひ》も幽《かす》かに幻《まぼろし》のやうに見《み》えたが、炉《ろ》にくべた柴《しば》がひら/\と炎先《ほさき》を立《た》てたので、婦人《をんな》は衝《つ》と走《はし》つて入《はい》る。空《そら》の月《つき》のうらを行《ゆ》くと思《おも》ふあたり遥《はるか》に馬子唄《まごうた》が聞《きこ》えたて。)」[#「)」」はママ]
第二十
「さて、其《それ》から御飯《ごはん》の時《とき》ぢや、膳《ぜん》には山家《やまが》の香《かう》の物《もの》、生姜《はじかみ》の漬《つ》けたのと、わかめを茹《う》でたの、塩漬《しほづけ》の名《な》も知《し》らぬ蕈《きのこ》の味噌汁《みそじる》、いやなか/\人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》どころではござらぬ。
品物《しなもの》は佗《わび》しいが、なか/\の御手料理《おてれうり》、餓《う》えては居《ゐ》るし冥加《みやうが》至極《しごく》なお給仕《きふじ》、盆《ぼん》を膝《ひざ》に構《かま》へて其上《そのうへ》を肱《ひぢ》をついて、頬《ほゝ》を支《さゝ》えながら、嬉《うれ》しさうに見《み》て居《ゐ》たわ。
椽側《えんがは》に居《ゐ》た白痴《あはう》は誰《たれ》も取合《とりあ》はぬ徒然《つれ/″\》に堪《た》へられなくなつたものか、ぐた/\と膝行出《いざりだ》して、婦人《をんな》の傍《そば》へ其《そ》の便々《べん/\》たる腹《はら》を持《も》つて来《き》たが、崩《くづ》れたやうに胡座《あぐら》して、頻《しきり》に恁《か》う我《わし》が膳《ぜん》を視《なが》めて、指《ゆびさし》をした。
(うゝ/\、うゝ/\。)
(何《なん》でございますね、あとでお食《あが》んなさい、お客様《きやくさま》ぢやあゝりませんか。)
白痴《あはう》は情《なさけ》ない顔《かほ》をして口《くち》を曲《ゆが》めながら頭《かぶり》を掉《ふ》つた。
(厭《いや》? 仕様《しやう》がありませんね、それぢや御一所《ごいつしよ》に召《め》しあがれ。貴僧《あなた》御免《ごめん》を蒙《かうむ》りますよ。)
私《わし》は思《おも》はず箸《はし》を置《お》いて、
(さあ何《ど》うぞお構《かま》ひなく、飛《とん》だ御雑作《ござふさ》を、頂《いたゞ》きます。)
(否《いえ》、何《なん》の貴僧《あなた》。お前《まい》さん後程《のちほど》に私《わたし》と一所《いつしよ》にお食《た》べなされば可《いゝ》のに。困《こま》つた人《ひと》でございますよ。)とそらさぬ愛想《あいさう》、手早《てばや》く同一《おなじ》やうな膳《ぜん》を拵《こしら》えてならべて出《だ》した。
飯《めし》のつけやうも効々《かひ/″\》しい女房《にようばう》ぶり、然《しか》も何《なん》となく奥床《おくゆか》しい、上品《じやうひん》な、高家《かうけ》の風《ふう》がある。
白痴《あはう》はどんよりした目《め》をあげて膳《ぜん》の上《うへ》を睨《ね》めて居《ゐ》たが、
(彼《あれ》を、あゝ、彼《あれ》、彼《あれ》。)といつてきよろ/\と四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》す。
婦人《をんな》は熟《ぢつ》と瞻《みまも》つて、
(
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