まあ、可《いゝ》ぢやないか。そんなものは何時《いつ》でも食《たべ》られます、今夜《こんや》はお客様《きやくさま》がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹《かたはら》を揺《ゆす》つたが、べそを掻《か》いて泣出《なきだ》しさう。
 婦人《をんな》は困《こう》じ果《は》てたらしい、傍《かたはら》のものゝ気《き》の毒《どく》さ。
(嬢様《ぢやうさま》、何《なに》か存《ぞん》じませんが、おつしやる通《とほ》りになすつたが可《い》いではござりませんか。私《わたくし》にお気扱《きあつかひ》は却《かへ》つて心苦《こゝろぐる》しうござります。)と慇懃《いんぎん》にいふた。
 婦人《をんな》は又《また》最《も》う一度《いちど》、
(厭《いや》かい、これでは悪《わる》いのかい。)
 白痴《あはう》が泣出《なきだ》しさうにすると、然《さ》も怨《うら》めしげに流盻《ながしめ》に見《み》ながら、こはれ/\になつた戸棚《とだな》の中《なか》から、鉢《はち》に入《はい》つたのを取出《とりだ》して手早《てばや》く白痴《あはう》の膳《ぜん》につけた。
(はい、)と故《わざ》とらしく、すねたやうにいつて笑顔造《えがほづくり》。
 はてさて迷惑《めいわく》な、こりや目《め》の前《まい》で黄色蛇《あおだいしやう》の旨煮《うまに》か、腹籠《はらごもり》の猿《さる》の蒸焼《むしやき》か、災難《さいなん》が軽《かる》うても、赤蛙《あかゞへる》の干物《ひもの》を大口《おほぐち》にしやぶるであらうと、潜《そツ》と見《み》て居《ゐ》ると、片手《かたて》に椀《わん》を持《も》ちながら掴出《つかみだ》したのは老沢庵《ひねたくあん》。
 其《それ》もさ、刻《きざ》んだのではないで、一本《いつぽん》三《み》ツ切《ぎり》にしたらうといふ握太《にぎりぶと》なのを横啣《よこくはえ》にしてやらかすのぢや。
 婦人《をんな》はよく/\あしらひかねたか、盗《ぬす》むやうに私《わし》を見《み》て颯《さつ》と顔《かほ》を赤《あか》らめて初心《しよしん》らしい、然様《そん》な質《たち》ではあるまいに、羞《はづ》かしげに膝《ひざ》なる手拭《てぬぐひ》の端《はし》を口《くち》にあてた。
 なるほど此《こ》の少年《せうねん》はこれであらう、身体《からだ》は沢庵色《たくあんいろ》にふとつて居《ゐ》る。やがてわけもなく餌食《えじき》を平《たひ》らげて、湯《ゆ》ともいはず、ふツ/\と太儀《たいぎ》さうに呼吸《いき》を向《むか》ふへ吐《つ》くわさ。
(何《なん》でございますか、私《わたし》は胸《むね》に支《つか》へましたやうで、些少《ちつと》も欲《ほ》しくございませんから、又《また》後程《のちほど》に頂《いたゞ》きましやう、)と婦人《をんな》自分《じぶん》は箸《はし》も取《と》らずに二《ふた》ツの膳《ぜん》を片《かた》つけてな。」

         第二十一

「頃刻《しばらく》悄乎《しよんぼり》して居《ゐ》たつけ。
(貴僧《あなた》嘸《さぞ》お疲労《つかれ》、直《す》ぐにお休《やす》ませ申《まを》しませうか。)
(難有《ありがた》う存《ぞん》じます、未《ま》だ些《ちツ》とも眠《ねむ》くはござりません、前刻《さツき》体《からだ》を洗《あら》ひましたので草臥《くたびれ》もすつかり復《なほ》りました。)
(那《あ》の流《なが》れは其麼《どんな》病《やまひ》にでもよく利《き》きます、私《わたし》が苦労《くらう》をいたしまして骨《ほね》と皮《かは》ばかりに体《からだ》が朽《か》れましても半日《はんにち》彼処《あすこ》につかつて居《を》りますと、水々《みづ/\》しくなるのでございますよ。尤《もツと》も那《あ》のこれから冬《ふゆ》になりまして山《やま》が宛然《まるで》氷《こほ》つて了《しま》ひ、川《かは》も崖《がけ》も不残《のこらず》雪《ゆき》になりましても、貴僧《あなた》が行水《ぎやうずゐ》を遊《あそ》ばした彼処《あすこ》ばかりは水《みづ》が隠《かく》れません、然《さ》うしていきりが立《た》ちます。
 鉄砲疵《てツぱうきづ》のございます猿《さる》だの、貴僧《あなた》、足《あし》を折《を》つた五位鷺《ごゐさぎ》、種々《いろ/\》な者《もの》が浴《ゆあ》みに参《まゐ》りますから其《そ》の足痕《あしあと》で崖《がけ》の路《みち》が出来《でき》ます位《くらゐ》、屹《きツ》と其《それ》が利《き》いたのでございませう。
 那様《そんな》にございませんければ恁《か》うやつてお話《はなし》をなすつて下《くだ》さいまし、淋《さび》しくつてなりません、本当《ほんと》にお可愧《はづか》しうございますが恁麼《こんな》山《やま》の中《なか》に引籠《ひツこも》つてをりますと、ものをいふことも忘《わす》れましたやうで、心細《こゝろぼそ》いのでございま
前へ 次へ
全37ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング