すよ。
 貴僧《あなた》、それでもお眠《ねむ》ければ御遠慮《ごゑんりよ》なさいますなえ。別《べつ》にお寝室《ねま》と申《まを》してもございませんが其換《そのかは》り蚊《か》は一ツも居《ゐ》ませんよ、町方《まちかた》ではね、上《かみ》の洞《ほら》の者《もの》は、里《さと》へ泊《とま》りに来《き》た時《とき》、蚊帳《かや》を釣《つ》つて寝《ね》かさうとすると、何《ど》うして入《はい》るのか解《わか》らないので、階子《はしご》を貸《か》せいと喚《わめ》いたと申《まを》して嫐《なぶ》るのでございます。
 沢山《たくさん》朝寝《あさね》を遊《あそ》ばしても鐘《かね》は聞《きこ》えず、鶏《とり》も鳴《な》きません、犬《いぬ》だつて居《を》りませんからお心休《こゝろやす》うござんせう。
 此人《このひと》も生《うま》れ落《お》ちると此山《このやま》で育《そだ》つたので、何《なん》にも存《ぞん》じません代《かはり》、気《き》の可《い》い人《ひと》で些《ちツ》ともお心置《こゝろおき》はないのでござんす。
 それでも風俗《ふう》のかはつた方《かた》が被入《いらつ》しやいますと、大事《だいじ》にしてお辞義《じぎ》をすることだけは知《し》つてゞございますが、未《ま》だ御挨拶《ごあいさつ》をいたしませんね。此頃《このごろ》は体《からだ》がだるいと見《み》えてお惰《なま》けさんになんなすつたよ、否《いゝえ》、宛《まる》で愚《おろか》なのではございません、何《なん》でもちやんと心得《こゝろえ》て居《を》ります。
 さあ、御坊様《ごぼうさま》に御挨拶《ごあいさつ》をなすつて下《くだ》さい、まあ、お辞義《じき》をお忘《わす》れかい。)と親《した》しげに身《み》を寄《よ》せて、顔《かほ》を差覗《さしのぞ》いて、いそ/\していふと、白痴《ばか》はふら/\と両手《りやうて》をついて、ぜんまいが切《き》れたやうにがつくり一|礼《れい》。
(はい、)といつて私《わし》も何《なに》か胸《むね》が迫《せま》つて頭《つむり》を下《さ》げた。
 其《その》まゝ其《そ》の俯向《うつむ》いた拍子《ひやうし》に筋《すぢ》が抜《ぬ》けたらしい、横《よこ》に流《なが》れやうとするのを、婦人《をんな》は優《やさ》しう扶《たす》け起《おこ》して、
(おゝ、よく為《し》たのねえ、)
 天晴《あツぱれ》といひたさうな顔色《かほつき》で、
(貴僧《あなた》、申《まを》せば何《なん》でも出来《でき》ませうと思《おも》ひますけれども、此人《このひと》の病《やまひ》ばかりはお医者《いしや》の手《て》でも那《あ》の水《みづ》でも復《なほ》りませなんだ、両足《りやうあし》が立《た》ちませんのでございますから、何《なに》を覚《おぼ》えさしましても役《やく》には立《た》ちません。其《それ》に御覧《ごらん》なさいまし、お辞義《じぎ》一《ひと》ツいたしますさい、あの通《とほり》大儀《たいぎ》らしい。
 ものを教《おし》へますと覚《おぼ》えますのに嘸《さぞ》骨《ほね》が折《を》れて切《せつ》なうござんせう、体《からだ》を苦《くる》しませるだけだと存《ぞん》じて何《なんに》も為《さ》せないで置《お》きますから、段々《だん/″\》、手《て》を動《うご》かす働《はたらき》も、ものをいふことも忘《わす》れました。其《それ》でも那《あ》の、謡《うた》が唄《うた》へますわ。二ツ三ツ今《いま》でも知《し》つて居《を》りますよ。さあ御客様《おきやくさま》に一ツお聞《き》かせなさいましなね。)
 白痴《ばか》は婦人《をんな》を見《み》て、又《また》私《わし》が顔《かほ》をぢろ/\見《み》て、人見知《ひとみしり》をするといつた形《かたち》で首《くび》を振《ふ》つた。」

         第二十二

「左右《とかく》して、婦人《をんな》が、激《はげ》ますやうに、賺《すか》すやうにして勧《すゝ》めると、白痴《ばか》は首《くび》を曲《ま》げて彼《か》の臍《へそ》を弄《もてあそ》びながら唄《うた》つた。
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木曾《きそ》の御嶽山《おんたけさん》は夏《なつ》でも寒《さむ》い、
      袷《あはせ》遣《や》りたや足袋《たび》添《そ》へて。
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(よく知《し》つて居《を》りませう、)と婦人《をんな》は聞澄《きゝすま》して莞爾《にツこり》する。
 不思議《ふしぎ》や、唄《うた》つた時《とき》の白痴《ばか》の声《こゑ》は此《この》話《はなし》をお聞《き》きなさるお前様《まへさま》は固《もと》よりぢやが、私《わし》も推量《すゐりやう》したとは月鼈雲泥《げつべつうんでい》、天地《てんち》の相違《さうゐ》、節廻《ふしまは》し、あげさげ、呼吸《こきふ》の続《つゞ》く処《ところ》から、第《だい》一|其《そ》の清《きよ
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