》らかな涼《すゞ》しい声《こゑ》といふ者《もの》は、到底《たうてい》此《こ》の少年《せうねん》の咽喉《のど》から出《で》たのではない。先《ま》づ前《さき》の世《よ》の此《この》白痴《ばか》の身《み》が、冥途《めいど》から管《くだ》で其《そ》のふくれた腹《はら》へ通《かよ》はして寄越《よこ》すほどに聞《きこ》えましたよ。
私《わし》は畏《かしこま》つて聞《き》き果《は》てると膝《ひざ》に手《て》をついたツ切《きり》何《ど》うしても顔《かほ》を上《あ》げて其処《そこ》な男女《ふたり》を見《み》ることが出来《でき》ぬ、何《なに》か胸《むね》がキヤキヤして、はら/\と落涙《らくるゐ》した。
婦人《をんな》は目早《めばや》く見《み》つけたさうで、
(おや、貴僧《あなた》、何《ど》うかなさいましたか。)
急《きふ》にものもいはれなんだが漸々《やう/\》、
(唯《はい》、何《なあに》、変《かは》つたことでもござりませぬ、私《わし》も嬢様《ぢやうさま》のことは別《べつ》にお尋《たづ》ね申《まを》しませんから、貴女《あなた》も何《なん》にも問《と》ふては下《くだ》さりますな。)
と仔細《しさい》は語《かた》らず唯《たゞ》思入《おもひい》つて然《さ》う言《い》ふたが、実《じつ》は以前《いぜん》から様子《やうす》でも知《し》れる、金釵玉簪《きんさぎよくさん》をかざし、蝶衣《てふい》を纒《まと》ふて、珠履《しゆり》を穿《うが》たば、正《まさ》に驪山《りさん》に入《い》つて陛下《へいか》と相抱《あひいだ》くべき豊肥妖艶《ほうひえうえん》の人《ひと》が其《その》男《をとこ》に対《たい》する取廻《とりまは》しの優《やさ》しさ、隔《へだて》なさ、親切《しんせつ》さに、人事《ひとごと》ながら嬉《うれ》しくて、思《おも》はず涙《なみだ》が流《なが》れたのぢや。
すると人《ひと》の腹《はら》の中《なか》を読《よ》みかねるやうな婦人《をんな》ではない、忽《たちま》ち様子《やうす》を悟《さと》つたかして、
(貴僧《あなた》は真個《ほんとう》にお優《やさ》しい。)といつて、得《え》も謂《い》はれぬ色《いろ》を目《め》に湛《たゝ》へて、ぢつと見《み》た。私《わし》も首《かうべ》を低《た》れた、むかふでも差俯向《さしうつむ》く。
いや、行燈《あんどう》が又《また》薄暗《うすくら》くなつて参《まゐ》つたやうぢやが、恐《おそ》らくこりや白痴《ばか》の所為《せゐ》ぢやて。
其時《そのとき》よ。
座《ざ》が白《しら》けて、暫《しば》らく言葉《ことば》が途絶《とだ》えたうちに所在《しよざい》がないので、唄《うた》うたひの太夫《たいふ》、退屈《たいくつ》をしたと見《み》えて顔《かほ》の前《まへ》の行燈《あんどう》を吸込《すひこ》むやうな大欠伸《おほあくび》をしたから。
身動《みうご》きをしてな、
(寝《ね》ようちやあ、寝《ね》ようちやあ。)とよた/\体《からだ》を取扱《もちあつか》ふわい。
(眠《ねむ》うなつたのかい、もうお寝《ね》か、)といつたが座《すは》り直《なほ》つて弗《ふ》と気《き》がついたやうに四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》した。戸外《おもて》は恰《あたか》も真昼《まひる》のやう、月《つき》の光《ひかり》は開《あ》け広《ひろ》げた家《や》の内《うち》へはら/\とさして、紫陽花《あぢさい》の色《いろ》も鮮麗《あざやか》に蒼《あを》かつた。
(貴僧《あなた》ももうお休《やす》みなさいますか。)
(はい、御厄介《ごやくかい》にあいなりまする。)
(まあ、いま宿《やど》を寝《ね》かします、おゆつくりなさいましな。戸外《おもて》へは近《ちか》うござんすが、夏《なつ》は広《ひろ》い方《はう》が結句《けツく》宜《よ》うございませう、私《わたくし》どもは納戸《なんど》へ臥《ふ》せりますから、貴僧《あなた》は此処《こゝ》へお広《ひろ》くお寛《くつろ》ぎが可《よ》うござんす、一寸《ちよいと》待《ま》つて。)といひかけて衝《つツ》と立《た》ち、つか/\と足早《あしばや》に土間《どま》へ下《お》りた、余《あま》り身《み》のこなしが活溌《くわツぱつ》であつたので、其《そ》の拍手《ひやうし》に黒髪《くろかみ》が先《さき》を巻《ま》いたまゝ頷《うなぢ》へ崩《くづ》れた。
鬢《びん》をおさへて、戸《と》につかまつて、戸外《おもて》を透《す》かしたが、独言《ひとりごと》をした。
(おや/\さつきの騒《さわ》ぎで櫛《くし》を落《おと》したさうな。)
いかさま馬《うま》の腹《はら》を潜《くゞ》つた時《とき》ぢや。」
第二十三
此折《このをり》から下《した》の廊下《らうか》に跫音《あしおと》がして、静《しづか》に大跨《おほまた》に歩行
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