《ある》いたのが寂《せき》として居《ゐ》るから能《よ》く。
 軈《やが》て小用《こよう》を達《た》した様子《やうす》、雨戸《あまど》をばたりと開《あ》けるのが聞《きこ》えた、手水鉢《てうづばち》へ干杓《ひしやく》の響《ひゞき》。
「おゝ、積《つも》つた、積《つも》つた。」と呟《つぶや》いたのは、旅籠屋《はたごや》の亭主《ていしゆ》の声《こゑ》である。
「ほゝう、此《こ》の若狭《わかさ》の商人《あきんど》は何処《どこ》へか泊《とま》つたと見《み》える、何《なに》か愉快《おもしろ》い夢《ゆめ》でも見《み》て居《ゐ》るかな。」
「何《ど》うぞ其後《そのあと》を、それから、」と聞《き》く身《み》には他事《たじ》をいふうちが悶《もど》かしく、膠《にべ》もなく続《つゞき》を促《うなが》した。
「さて、夜《よる》も更《ふ》けました、」といつて旅僧《たびそう》は又《また》語出《かたりだ》した。
「大抵《たいてい》推量《すゐりやう》もなさるであらうが、いかに草臥《くたび》れて居《を》つても申上《まをしあ》げたやうな深山《しんざん》の孤家《ひとつや》で、眠《ねむ》られるものではない其《それ》に少《すこ》し気《き》になつて、はじめの内《うち》私《わし》を寝《ね》かさなかつた事《こと》もあるし、目《め》は冴《さ》えて、まじ/\して居《ゐ》たが、有繋《さすが》に、疲《つかれ》が酷《ひど》いから、心《しん》は少《すこ》し茫乎《ぼんやり》して来《き》た、何《なに》しろ夜《よ》の白《しら》むのが待遠《まちどほ》でならぬ。
 其処《そこ》ではじめの内《うち》は我《われ》ともなく鐘《かね》の音《ね》の聞《きこ》えるのを心頼《こゝろたの》みにして、今《いま》鳴《な》るか、もう鳴《な》るか、はて時刻《じこく》はたつぷり経《た》つたものをと、怪《あや》しんだが、やがて気《き》が着《つ》いて、恁云《かうい》ふ処《ところ》ぢや山寺《やまでら》処《どころ》ではないと思《おも》ふと、俄《にはか》に心細《こゝろぼそ》くなつた。
 其時《そのとき》は早《は》や、夜《よる》がものに譬《たと》へると谷《たに》の底《そこ》ぢや、白痴《ばか》がだらしのない寝息《ねいき》も聞《きこ》えなくなると、忽《たちま》ち戸《と》の外《そと》にものゝ気勢《けはひ》がして来《き》た。
 獣《けもの》の足音《あしおと》のやうで、然《さ》まで遠《とほ》くの方《はう》から歩行《ある》いて来《き》たのではないやう、猿《さる》も、蟇《ひき》も居《ゐ》る処《ところ》と、気休《きやす》めに先《ま》づ考《かんが》へたが、なかなか何《ど》うして。
 暫《しばら》くすると今《いま》其奴《そやつ》が正面《しやうめん》の戸《と》に近《ちかづ》いたなと思《おも》つたのが、羊《ひつじ》の啼声《なきごゑ》になる。
 私《わし》は其《そ》の方《はう》を枕《まくら》にして居《ゐ》たのぢやから、つまり枕元《まくらもと》の戸外《おもて》ぢやな。暫《しばら》くすると、右手《めて》の彼《か》の紫陽花《あぢさい》が咲《さ》いて居《ゐ》た其《そ》の花《はな》の下《した》あたりで、鳥《とり》の羽《は》ばたきする音《おと》。
 むさゝびか知《し》らぬがきツ/\といつて屋《や》の棟《むね》へ、軈《やが》て凡《およ》そ小山《こやま》ほどあらうと気取《けど》られるのが胸《むね》を圧《お》すほどに近《ちかづ》いて来《き》て、牛《うし》が啼《な》いた。遠《とほ》く彼方《かなた》からひた/\と小刻《こきざみ》に駈《か》けて来《く》るのは、二|本足《ほんあし》に草鞋《わらぢ》を穿《は》いた獣《けもの》と思《おも》はれた、いやさまざまにむら/\と家《いへ》のぐるりを取巻《とりま》いたやうで、二十三十のものゝ鼻息《はないき》、羽音《はおと》、中《なか》には囁《さゝや》いて居《ゐ》るのがある。恰《あたか》も何《なに》よ、それ畜生道《ちくしやうだう》の地獄《ぢごく》の絵《ゑ》を、月夜《つきよ》に映《うつ》したやうな怪《あやし》の姿《すがた》が板戸《いたど》一|重《へ》、魑魅魍魎《ちみまうりやう》といふのであらうか、ざわ/\と木《こ》の葉《は》が戦《そよ》ぐ気色《けしき》だつた。
 息《いき》を凝《こら》すと、納戸《なんど》で、
(うむ、)といつて長《なが》く呼吸《いき》を引《ひ》いて一|声《こゑ》、魘《うなさ》れたのは婦人《をんな》ぢや。
(今夜《こんや》はお客様《きやくさま》があるよ。)と叫《さけ》んだ。
(お客様《きやくさま》があるぢやないか。)
と暫《しばら》く経《た》つて二|度目《どめ》のは判然《はつきり》と清《すゞ》しい声《こゑ》。
 極《きは》めて低声《こゞゑ》で、
(お客様《きやくさま》があるよ。)といつて寝返《ねがへ》る音《おと》がした、更《さら》に寝返《ね
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