高野聖
泉鏡太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)参謀本部《さんぼうほんぶ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)柳《やな》ヶ|瀬《せ》では
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+散」、36−13]《しぶき》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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第一
「参謀本部《さんぼうほんぶ》編纂《へんさん》の地図《ちづ》を又《また》繰開《くりひら》いて見《み》るでもなからう、と思《おも》つたけれども、余《あま》りの道《みち》ぢやから、手《て》を触《さは》るさへ暑《あつ》くるしい、旅《たび》の法衣《ころも》の袖《そで》をかゝげて、表紙《へうし》を附《つ》けた折本《をりほん》になつてるのを引張《ひつぱ》り出《だ》した。
飛騨《ひだ》から信州《しんしう》へ越《こ》える深山《しんざん》の間道《かんだう》で、丁度《ちやうど》立休《たちやす》らはうといふ一本《いつぽん》の樹立《こだち》も無《な》い、右《みぎ》も左《ひだり》も山《やま》ばかりぢや、手《て》を伸《の》ばすと達《とゞ》きさうな峯《みね》があると、其《そ》の峯《みね》へ峯《みね》が乗《の》り巓《いたゞき》が被《かぶ》さつて、飛《と》ぶ鳥《とり》も見《み》えず、雲《くも》の形《かたち》も見《み》えぬ。
道《みち》と空《そら》との間《あひだ》に唯《たゞ》一人《ひとり》我《わし》ばかり、凡《およ》そ正午《しやうご》と覚《おぼ》しい極熱《ごくねつ》の太陽《たいやう》の色《いろ》も白《しろ》いほどに冴《さ》え返《かへ》つた光線《くわうせん》を、深々《ふか/″\》と頂《いたゞ》いた一重《ひとへ》の檜笠《ひのきがさ》に凌《しの》いで、恁《か》う図面《づめん》を見《み》た。」
旅僧《たびそう》は然《さ》ういつて、握拳《にぎりこぶし》を両方《りやうはう》枕《まくら》に乗《の》せ、其《それ》で額《ひたひ》を支《さゝ》へながら俯向《うつむ》いた。
道連《みちづれ》になつた上人《しやうにん》は、名古屋《なごや》から此《こ》の越前《えちぜん》敦賀《つるが》の旅籠屋《はたごや》に来《き》て、今《いま》しがた枕《まくら》に就《つ》いた時《とき》まで、私《わたし》が知《し》つてる限《かぎ》り余《あま》り仰向《あふむ》けになつたことのない、詰《つま》り傲然《がうぜん》として物《もの》を見《み》ない質《たち》の人物《じんぶつ》である。
一体《いつたい》東海道《とうかいだう》掛川《かけがは》の宿《しゆく》から同《おなじ》汽車《きしや》に乗《の》り組《く》んだと覚《おぼ》えて居《ゐ》る、腰掛《こしかけ》の隅《すみ》に頭《かうべ》を垂《た》れて、死灰《しくわい》の如《ごと》く控《ひか》へたから別段《べつだん》目《め》にも留《と》まらなかつた。
尾張《をはり》の停車場《ステーシヨン》で他《た》の乗組員《のりくみゐん》は言合《いひあ》はせたやうに、不残《のこらず》下《お》りたので、函《はこ》の中《なか》には唯《たゞ》上人《しやうにん》と私《わたし》と二人《ふたり》になつた。
此《こ》の汽車《きしや》は新橋《しんばし》を昨夜《さくや》九時半《くじはん》に発《た》つて、今夕《こんせき》敦賀《つるが》に入《はい》らうといふ、名古屋《なごや》では正午《ひる》だつたから、飯《めし》に一折《ひとをり》の鮨《すし》を買《かつ》た。旅僧《たびそう》も私《わたし》と同《おなじ》く其《そ》の鮨《すし》を求《もと》めたのであるが、蓋《ふた》を開《あ》けると、ばら/\と海苔《のり》が懸《かゝ》つた、五目飯《ちらし》の下等《かとう》なので。
(やあ、人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》ばかりだ、)と踈匆《そゝ》ツかしく絶叫《ぜつけう》した、私《わたし》の顔《かほ》を見《み》て旅僧《たびそう》は耐《こら》へ兼《か》ねたものと見《み》える、吃々《くつ/\》と笑《わら》ひ出《だ》した、固《もと》より二人《ふたり》ばかりなり、知己《ちかづき》にはそれから成《な》つたのだが、聞《き》けば之《これ》から越前《ゑちぜん》へ行《い》つて、派《は》は違《ちが》ふが永平寺《えいへいじ》に訪《たづ》ねるものがある、但《たゞ》し敦賀《つるが》に一泊《いつぱく》とのこと。
若狭《わかさ》へ帰省《きせい》する私《わたし》もおなじ処《ところ》で泊《とま》らねばならないのであるから、其処《そこ》で同行《どうかう》の約束《やくそく》が出来《でき》た。
渠《かれ》は高野山《かうやさん》に籍《せき》を置《
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