お》くものだといつた、年配《ねんぱい》四十五六《しじふごろく》、柔和《にうわ》な、何等《なんら》の奇《き》も見《み》えぬ、可懐《なつかし》い、おとなしやかな風采《とりなり》で、羅紗《らしや》の角袖《かくそで》の外套《ぐわいたう》を着《き》て、白《しろ》のふらんねるの襟巻《えりまき》を占《し》め、土耳古形《とるこがた》の帽《ばう》を冠《かむ》り、毛糸《けいと》の手袋《てぶくろ》を箝《は》め、白足袋《しろたび》に、日和下駄《ひよりげた》で、一見《いつけん》、僧侶《そうりよ》よりは世《よ》の中《なか》の宗匠《そうしやう》といふものに、其《それ》よりも寧《むし》ろ俗《ぞく》歟《か》。
(お泊《とま》りは何方《どちら》ぢやな、)といつて聞《き》かれたから、私《わたし》は一人旅《ひとりたび》の旅宿《りよしゆく》の詰《つま》らなさを、染々《しみ/″\》歎息《たんそく》した、第一《だいいち》盆《ぼん》を持《も》つて女中《ぢよちう》が坐睡《ゐねむり》をする、番頭《ばんとう》が空世辞《そらせじ》をいふ、廊下《らうか》を歩行《ある》くとじろ/\目《め》をつける、何《なに》より最《もつと》も耐《た》へ難《がた》いのは晩飯《ばんめし》の支度《したく》が済《す》むと、忽《たちま》ち灯《あかり》を行燈《あんどう》に換《か》へて、薄暗《うすぐら》い処《ところ》でお休《やす》みなさいと命令《めいれい》されるが、私《わたし》は夜《よ》が更《ふ》けるまで寝《ね》ることが出来《でき》ないから、其間《そのあひだ》の心持《こゝろもち》といつたらない、殊《こと》に此頃《このごろ》の夜《よ》は長《なが》し、東京《とうきやう》を出《で》る時《とき》から一晩《ひとばん》の泊《とまり》が気《き》になつてならない位《くらゐ》、差支《さしつか》へがなくば御僧《おんそう》と御一所《ごいつしよ》に。
 快《こゝろよ》く頷《うなづ》いて、北陸地方《ほくりくちはう》を行脚《あんぎや》の節《せつ》はいつでも杖《つゑ》を休《やす》める香取屋《かとりや》といふのがある、旧《もと》は一軒《いつけん》の旅店《りよてん》であつたが、一人女《ひとりむすめ》の評判《ひやうばん》なのがなくなつてからは看板《かんばん》を外《はづ》した、けれども昔《むかし》から懇意《こんい》な者《もの》は断《ことは》らず留《とめ》て、老人夫婦《としよりふうふ》が内端《うちは》に世話《せわ》をして呉《く》れる、宜《よろ》しくば其《それ》へ。其代《そのかはり》といひかけて、折《をり》を下《した》に置《お》いて、
(御馳走《ごちそう》は人参《にんじん》と干瓢《かんぺう》ばかりぢや。)
と呵々《から/\》と笑つた、慎深《つゝしみふか》さうな打見《うちみ》よりは気《き》の軽《かる》い。

         第二

 岐阜《ぎふ》では未《ま》だ蒼空《あをそら》が見《み》えたけれども、後《あと》は名《な》にし負《お》ふ北国空《ほくこくぞら》、米原《まいばら》、長浜《ながはま》は薄曇《うすぐもり》、幽《かすか》に日《ひ》が射《さ》して、寒《さむ》さが身《み》に染《し》みると思《おも》つたが、柳《やな》ヶ|瀬《せ》では雨《あめ》、汽車《きしや》の窓《まど》が暗《くら》くなるに従《したが》ふて、白《しろ》いものがちら/\交《まじ》つて来《き》た。
(雪《ゆき》ですよ。)
(然《さ》やうぢやな。)といつたばかりで別《べつ》に気《き》に留《と》めず、仰《あふ》いで空《そら》を見《み》やうともしない、此時《このとき》に限《かぎ》らず、賤《しづ》ヶ|岳《たけ》が、といつて古戦場《こせんぢやう》を指《さ》した時《とき》も、琵琶湖《びはこ》の風景《ふうけい》を語《かた》つた時《とき》も、旅僧《たびそう》は唯《たゞ》頷《うなづ》いたばかりである。
 敦賀《つるが》で悚毛《おぞけ》の立《た》つほど煩《わづら》はしいのは宿引《やどひき》の悪弊《あくへい》で、其日《そのひ》も期《き》したる如《ごと》く、汽車《きしや》を下《お》りると停車場《ステーシヨン》の出口《でぐち》から町端《まちはな》へかけて招《まね》きの提灯《ちやうちん》、印傘《しるしかさ》の堤《つゝみ》を築《きづ》き、潜抜《くゞりぬ》ける隙《すき》もあらなく旅人《たびびと》を取囲《とりかこ》んで、手《て》ン手《で》に喧《かまびす》しく己《おの》が家号《やがう》を呼立《よびた》てる、中《なか》にも烈《はげ》しいのは、素早《すばや》く手荷物《てにもつ》を引手繰《ひツたぐ》つて、へい有難《ありがた》う様《さま》で、を喰《くら》はす、頭痛持《づゝうもち》は血《ち》が上《のぼ》るほど耐《こら》へ切《き》れないのが、例《れい》の下《した》を向《む》いて悠々《いう/\》と小取廻《ことりまはし》に通抜《とほりぬ》ける旅僧《た
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