(世話《せわ》が焼《や》けることねえ、)
 婦人《をんな》は投《な》げるやうにいつて草履《ざうり》を突《つツ》かけて土間《どま》へついと出《で》る。
(嬢様《ぢやうさま》勘違《かんちが》ひさつしやるな、これはお前様《まへさま》ではないぞ、何《なん》でもはじめから其処《そこ》な御坊様《おばうさま》に目《め》をつけたつけよ、畜生《ちくしやう》俗縁《ぞくえん》があるだツぺいわさ。)
 俗縁《ぞくえん》は驚《おどろ》いたい。
 すると婦人《をんな》が、
(貴僧《あなた》こゝへ入《い》らつしやる路《みち》で誰《だれ》にかお逢《あ》ひなさりはしませんか。)」

         第十九

「(はい、辻《つぢ》の手前《てまへ》で富山《とやま》の反魂丹売《はんごんたんうり》に逢《あ》ひましたが、一|足《あし》前《さき》に矢張《やツぱり》此《この》路《みち》へ入《はい》りました。)
(あゝ、然《さ》う、)と会心《くわいしん》の笑《ゑみ》を洩《も》らして婦人《をんな》は蘆毛《あしげ》の方《はう》を見《み》た、凡《およ》そ耐《たま》らなく可笑《をか》しいといつた仂《はした》ない風采《とりなり》で。
 極《きは》めて与《くみ》し易《やす》う見《み》えたので、
(もしや此家《こちら》へ参《まゐ》りませなんだでございませうか。)
(否《いゝえ》、存《ぞん》じません。)といふ時《とき》忽《たちま》ち犯《をか》すべからざる者《もの》になつたから、私《わし》は口《くち》をつぐむと、婦人《をんな》は、匙《さぢ》を投《な》げて衣《きぬ》の塵《ちり》を払《はら》ふて居《ゐ》る馬《うま》の前足《まへあし》の下《した》に小《ちい》さな親仁《おやぢ》を見向《みむ》いて、
(為様《しやう》がないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、其《そ》の細帯《ほそおび》を解《と》きかけた、片端《かたはし》が土《つち》へ引《ひ》かうとするのを、掻取《かいと》つて一寸《ちよいと》猶予《ためら》ふ。
(あゝ、あゝ、)と濁《にご》つた声《こゑ》を出《だ》して白痴《あはう》が件《くだん》のひよろりとした手《て》を差向《さしむ》けたので、婦人《をんな》は解《と》いたのを渡《わた》して遣《や》ると、風呂敷《ふろしき》を寛《ひろ》げたやうな、他愛《たあい》のない、力《ちから》のない、膝《ひざ》の上《うへ》へわがねて宝物《はうもつ》を守護《しゆご》するやうぢや。
 婦人《をんな》は衣紋《えもん》を抱合《かきあ》はせ、乳《ちゝ》の下《した》でおさへながら静《しづ》かに土間《どま》を出《で》て馬《うま》の傍《わき》へつゝと寄《よ》つた。
 私《わし》は唯《たゞ》呆気《あつけ》に取《と》られて見《み》て居《ゐ》ると、爪立《つまだて》をして伸上《のびあが》り、手《て》をしなやかに空《そら》ざまにして、二三|度《ど》鬣《たてがみ》を撫《な》でたが。
 大《おほき》な鼻頭《はなづら》の正面《しやうめん》にすつくりと立《た》つた。丈《せい》もすら/\と急《きふ》に高《たか》くなつたやうに見《み》えた、婦人《をんな》は目《め》を据《す》ゑ、口《くち》を結《むす》び、眉《まゆ》を開《ひら》いて恍惚《うつとり》となつた有様《ありさま》、愛嬌《あいけう》も嬌態《しな》も、世話《せわ》らしい打解《うちと》けた風《ふう》は頓《とみ》に失《う》せて、神《しん》か、魔《ま》かと思《おも》はれる。
 其時《そのとき》裏《うら》の山《やま》、向《むか》ふの峯《みね》、左右《さいう》前後《ぜんご》にすく/\とあるのが、一ツ一ツ嘴《くちばし》を向《む》け、頭《かしら》を擡《もた》げて、此《こ》の一|落《らく》の別天地《べツてんち》、親仁《おやぢ》を下手《したで》に控《ひか》へ、馬《うま》に面《めん》して彳《たゝず》んだ月下《げツか》の美女《びぢよ》の姿《すがた》を差覗《さしのぞ》くが如《ごと》く、陰々《いん/\》として深山《しんざん》の気《き》が籠《こも》つて来《き》た。
 生《なま》ぬるい風《かぜ》のやうな気勢《けはひ》がすると思《おも》ふと、左《ひだり》の肩《かた》から片膚《かたはだ》を脱《ぬ》いたが、右《みぎ》の手《て》を脱《はづ》して、前《まへ》へ廻《まは》し、ふくらんだ胸《むね》のあたりで着《き》て居《ゐ》た其《そ》の単衣《ひとへ》を丸《まろ》げて持《も》ち、霞《かすみ》も絡《まと》はぬ姿《すがた》になつた。
 馬《うま》は背《せな》、腹《はら》の皮《かは》を弛《ゆる》めて汗《あせ》もしとゞに流《なが》れんばかり、突張《つツぱ》つた脚《あし》もなよ/\として身震《みぶるひ》をしたが、鼻面《はなづら》を地《ち》につけて、一|掴《つかみ》の白泡《しろあは》を吹出《ふきだ》したと思《おも》ふと前足《まへあし》を折《を》らうとする。

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