げなされ。)
婦人《をんな》は炉縁《ろぶち》に行燈《あんどう》を引附《ひきつ》け、俯向《うつむ》いて鍋《なべ》の下《した》を焚《いぶ》して居《ゐ》たが振仰《ふりあふ》ぎ、鉄《てつ》の火箸《ひばし》を持《も》つた手《て》を膝《ひざ》に置《お》いて、
(御苦労《ごくらう》でござんす。)
(いんえ御懇《ごねむごろ》には及《およ》びましねえ。叱《しつ》!、)と荒縄《あらなは》の綱《つな》を引《ひ》く。青《あを》で蘆毛《あしげ》、裸馬《はだかうま》で逞《たくま》しいが、鬣《たてがみ》の薄《うす》い牡《おす》ぢやわい。
其《その》馬《うま》がさ、私《わし》も別《べつ》に馬《うま》は珍《めづ》らしうもないが、白痴殿《ばかどの》の背後《うしろ》に畏《かしこま》つて手持不沙汰《てもちぶさた》ぢやから今《いま》引《ひ》いて行《ゆ》かうとする時《とき》椽側《えんがは》へひらりと出《で》て、
(其《その》馬《うま》は何処《どこ》へ。)
(おゝ、諏訪《すは》の湖《みづうみ》の辺《あたり》まで馬市《うまいち》へ出《だ》しやすのぢや、これから明朝《あした》御坊様《おばうさま》が歩行《ある》かつしやる山路《やまみち》を越《こ》えて行《ゆ》きやす。)
(もし其《それ》へ乗《の》つて今《いま》からお遁《に》げ遊《あそ》ばすお意《つもり》ではないかい。)
婦人《をんな》は慌《あはた》だしく遮《さへぎ》つて声《こゑ》を懸《か》けた。
(いえ、勿体《もツたい》ない、修行《しゆぎやう》の身《み》が馬《うま》で足休《あしやす》めをしませうなぞとは存《ぞん》じませぬ。)
(何《なん》でも人間《にんげん》を乗《の》つけられさうな馬《うま》ぢやあござらぬ。御坊様《おばうさま》は命拾《いのちびろひ》をなされたのぢやで、大人《おとな》しうして嬢様《ぢやうさま》の袖《そで》の中《なか》で、今夜《こんや》は助《たす》けて貰《もら》はつしやい。然様《さやう》ならちよつくら行《い》つて参《まゐ》りますよ。)
(あい。)
(畜生《ちくしやう》、)といつたが馬《うま》は出《で》ないわ。びく/\と蠢《うごめ》いて見《み》える大《おほき》な鼻面《はなツつら》を此方《こちら》へ捻《ね》ぢ向《む》けて頻《しきり》に私等《わしら》が居《ゐ》る方《はう》を見《み》る様子《やうす》。
(どう/\どう、畜生《ちくしやう》これあだけた獣《けもの》ぢや、やい!)
右左《みぎひだり》にして綱《つな》を引張《ひつぱ》つたが、脚《あし》から根《ね》をつけた如《ごと》くにぬつくと立《た》つて居《ゐ》てびくともせぬ。
親仁《おやぢ》大《おほい》に苛立《いらだ》つて、叩《たゝ》いたり、打《ぶ》つたり、馬《うま》の胴体《どうたい》について二三|度《ど》ぐる/\と廻《ま》はつたが少《すこ》しも歩《ある》かぬ。肩《かた》でぶツつかるやうにして横腹《よこばら》に体《たい》をあてた時《とき》、漸《やうや》う前足《まへあし》を上《あ》げたばかり又《また》四|脚《あし》を突張《つツぱ》り抜《ぬ》く。
(嬢様《ぢやうさま》々々《/\》。)
と親仁《おやぢ》が喚《わめ》くと、婦人《をんな》は一寸《ちよいと》立《た》つて白《しろ》い爪《つま》さきをちよろちよろと真黒《まツくろ》に煤《すゝ》けた太《ふと》い柱《はしら》を楯《たて》に取《と》つて、馬《うま》の目《め》の届《とゞ》かぬほどに小隠《こがく》れた。
其内《そのうち》腰《こし》に挟《はさ》んだ、煮染《にし》めたやうな、なへ/\の手拭《てぬぐひ》を抜《ぬ》いて克明《こくめい》に刻《きざ》んだ額《ひたひ》の皺《しは》の汗《あせ》を拭《ふ》いて、親仁《おやぢ》は之《これ》で可《よ》しといふ気組《きぐみ》、再《ふたゝ》び前《まへ》へ廻《まは》つたが、旧《きう》に依《よ》つて貧乏動《びんぼうゆるぎ》もしないので、綱《つな》に両手《りやうて》をかけて足《あし》を揃《そろ》へて反返《そりかへ》るやうにして、うむと総身《さうみ》の力《ちから》を入《い》れた。途端《とたん》に何《ど》うぢやい。
凄《すさま》じく嘶《いなゝ》いて前足《まへあし》を両方《りやうはう》中空《なかぞら》へ飜《ひるがへ》したから、小《ちひさ》な親仁《おやぢ》は仰向《あふむ》けに引《ひツ》くりかへつた、づどんどう、月夜《つきよ》に砂煙《すなけぶり》が※[#「火+發」、42−10]《ぱツ》と立《た》つ。
白痴《ばか》にも之《これ》は可笑《をかし》かつたらう、此時《このとき》ばかりぢや、真直《まツすぐ》に首《くび》を据《す》ゑて厚《あつ》い唇《くちびる》をばくりと開《あ》けた、大粒《おほつぶ》な歯《は》を露出《むきだ》して、那《あ》の宙《ちゆう》へ下《さ》げて居《ゐ》る手《て》を風《かぜ》で煽《あふ》るやうに、はらり/\。
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