親兄《おやあに》の心《こゝろ》もなだめるため、其処《そこ》で娘《むすめ》に小児《こども》を家《うち》まで送《おく》らせることにした。
送《おく》つて来《き》たのが孤家《ひとつや》で。
其時分《そのじぶん》はまだ一ヶの荘《さう》、家《いへ》も小《こ》二十|軒《けん》あつたのが、娘《むすめ》が来《き》て一|日《にち》二|日《か》、つひほだされて逗留《たうりう》した五|日目《かめ》から大雨《おほあめ》が降出《ふりだ》した。瀧《たき》を覆《くつがへ》すやうで小留《をやみ》もなく家《うち》に居《ゐ》ながら皆《みんな》蓑笠《みのかさ》で凌《しの》いだ位《くらゐ》、茅葺《かやぶき》の繕《つくろひ》をすることは扨置《さてお》いて、表《おもて》の戸《と》もあけられず、内《うち》から内《うち》、隣同士《となりどうし》、おう/\と声《こゑ》をかけ合《あ》つて纔《わづか》に未《ま》だ人種《ひとだね》の世《よ》に尽《つ》きぬのを知《し》るばかり、八|日《か》を八百|年《ねん》と雨《あめ》の中《なか》に籠《こも》ると九日目《こゝのかめ》の真夜中《まよなか》から大風《たいふう》が吹出《ふきだ》して其《その》風《かぜ》の勢《いきほひ》こゝが峠《たうげ》といふ処《ところ》で忽《たちま》ち泥海《どろうみ》。
此《こ》の洪水《こうずゐ》で生残《いきのこ》つたのは、不思議《ふしぎ》にも娘《むすめ》と小児《こども》と其《それ》に其時《そのとき》村《むら》から供《とも》をした此《こ》の親仁《おやぢ》ばかり。
同一《おなし》水《みづ》で医者《いしや》の内《うち》も死絶《しにた》えた、さればかやうな美女《びぢよ》が片田舎《かたゐなか》に生《うま》れたのも国《くに》が世《よ》がはり、代《だい》がはりの前兆《ぜんちやう》であらうと、土地《とち》のものは言伝《いひつた》へた。
嬢様《ぢやうさま》は帰《かへ》るに家《いへ》なく世《よ》に唯《たゞ》一人《ひとり》となつて小児《こども》と一|所《しよ》に山《やま》に留《とゞ》まつたのは御坊《ごばう》が見《み》らるゝ通《とほり》、又《また》那《あ》の白痴《ばか》につきそつて行届《ゆきとゞ》いた世話《せわ》も見《み》らるゝ通《とほり》、洪水《こうずゐ》の時《とき》から十三|年《ねん》、いまになるまで一|日《にち》もかはりはない。
といひ果《は》てゝ親仁《おやぢ》の又《また》気味《きみ》の悪《わる》い北叟笑《ほくそゑみ》。
(恁《か》う身《み》の上《うへ》を話《はな》したら、嬢様《ぢやうさま》を不便《ふびん》がつて、薪《まき》を折《を》つたり水《みづ》を汲《く》む手扶《てだす》けでもしてやりたいと、情《なさけ》が懸《かゝ》らう。本来《ほんらい》の好心《すきごゝろ》、可加減《いゝかげん》な慈悲《じひ》ぢやとか、情《なさけ》ぢやとかいふ名《な》につけて、一|層《そ》山《やま》へ帰《かへ》りたかんべい、はて措《を》かつしやい。彼《あ》の白痴殿《ばかどの》の女房《にようぼう》になつて、世《よ》の中《なか》へは目《め》もやらぬ換《かはり》にやあ、嬢様《ぢやうさま》は如意自在《によゐじざい》、男《をとこ》はより取《ど》つて、飽《あ》けば、息《いき》をかけて獣《けもの》にするわ、殊《こと》に其《そ》の洪水《こうずゐ》以来《いらい》、山《やま》を穿《うが》つたこの流《ながれ》は天道様《てんたうさま》がお授《さづ》けの、男《をとこ》を誘《いざな》ふ怪《あや》しの水《みづ》、生命《いのち》を取《と》られぬものはないのぢや。
天狗道《てんぐだう》にも三|熱《ねつ》の苦悩《くなう》、髪《かみ》が乱《みだ》れ、色《いろ》が蒼《あを》ざめ、胸《むね》が痩《や》せて手足《てあし》が細《ほそ》れば、谷川《たにかは》を浴《あ》びると旧《もと》の通《とほり》、其《それ》こそ水《みづ》が垂《た》るばかり、招《まね》けば活《い》きた魚《うを》も来《く》る、睨《にら》めば美《うつく》しい木《き》の実《み》も落《お》つる、袖《そで》を翳《かざ》せば雨《あめ》も降《ふる》なり、眉《まゆ》を開《ひら》けば風《かぜ》も吹《ふ》くぞよ。
然《しか》もうまれつきの色好《いろごの》み、殊《こと》に又《また》若《わか》いのが好《すき》ぢやで、何《なに》か御坊《ごぼう》にいうたであらうが、其《それ》を実《まこと》とした処《ところ》で、軈《やが》て飽《あ》かれると尾《を》が出来《でき》る、耳《みゝ》が動《うご》く、足《あし》がのびる、忽《たちま》ち形《かたち》が変《へん》ずるばかりぢや。
いや、軈《やが》て此《こ》の鯉《こひ》を料理《れうり》して、大胡座《おほあぐら》で飲《の》む時《とき》の魔神《ましん》の姿《すがた》を見《み》せたいな。
妄念《まうねん》は起《おこ》さずに早《はや》
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