へ》をいひ立《た》てに一|日《にち》延《の》ばしにしたのぢやが三|日《か》経《た》つと、兄《あに》を残《のこ》して、克明《こくめい》な父親《てゝおや》の股引《もゝひき》の膝《ひざ》でずつて、あとさがりに玄関《げんくわん》から土間《どま》へ、草鞋《わらぢ》を穿《は》いて又《また》地《つち》に手《て》をついて、次男坊《じなんばう》の生命《いのち》の扶《たす》かりまするやうに、ねえ/\、といふて山《やま》へ帰《かへ》つた。
 其《それ》でもなか/\捗取《はかど》らず、七日《なぬか》も経《た》つたので、後《あと》に残《のこ》つて附添《つきそ》つて居《ゐ》た兄者人《あにじやひと》が丁度《ちやうど》苅入《かりいれ》で、此節《このせつ》は手《て》が八|本《ほん》も欲《ほ》しいほど忙《いそが》しい、お天気《てんき》模様《もやう》も雨《あめ》のやう、長雨《ながあめ》にでもなりますと、山畠《やまはたけ》にかけがへのない稲《いね》が腐《くさ》つては、餓死《うゑじに》でござりまする、総領《さうりやう》の私《わし》は一|番《ばん》の働手《はたらきて》、かうしては居《を》られませぬから、と辞《ことわり》をいつて、やれ泣《な》くでねえぞ、としんめり子供《こども》にいひ聞《き》かせて病人《びやうにん》を置《お》いて行《い》つた。
 後《あと》には子供《こども》一人《ひとり》、其時《そのとき》が戸長様《こちやうさま》の帳面前《ちやうめんまへ》年紀《とし》六ツ、親《おや》六十で児《こ》が二十《はたち》なら徴兵《ちようへい》はお目《め》こぼしと何《なに》を間違《まちが》へたか届《とゞけ》が五|年《ねん》遅《おそ》うして本当《ほんたう》は十一、それでも奥山《おくやま》で育《そだ》つたから村《むら》の言葉《ことば》も碌《ろく》には知《し》らぬが、怜悧《りこう》な生《うまれ》で聞分《きゝわけ》があるから、三ツづつあひかはらず鶏卵《たまご》を吸《す》はせられる汁《つゆ》も、今《いま》に療治《れうぢ》の時《とき》不残《のこらず》血《ち》になつて出《で》ることゝ推量《すゐりやう》して、べそを掻《か》いても、兄者《あにじや》が泣《な》くなといはしつたと、耐《こら》へて居《ゐ》た心《こゝろ》の内《うち》。
 娘《むすめ》の情《なさけ》で内《うち》と一|所《しよ》に膳《ぜん》を並《なら》べて食事《しよくじ》をさせると、沢庵《たくわん》の切《きれ》をくわへて隅《すみ》の方《はう》へ引込《ひきこ》むいぢらしさ。
 弥《いよい》よ明日《あす》が手術《しゆじゆつ》といふ夜《よ》は、皆《みんな》寝静《ねしづ》まつてから、しく/\蚊《か》のやうに泣《な》いて居《ゐ》るのを、手水《てうづ》に起《お》きた娘《むすめ》が見《み》つけてあまりの不便《ふびん》さに抱《だ》いて寝《ね》てやつた。
 さて療治《れうぢ》となると例《れい》の如《ごと》く娘《むすめ》が背後《うしろ》から抱《だ》いて居《ゐ》たから、脂汗《あぶらあせ》を流《なが》しながら切《き》れものが入《はい》るのを、感心《かんしん》にじつと耐《こら》へたのに、何処《どこ》を切違《きりちが》へたか、それから流《なが》れ出《だ》した血《ち》が留《と》まらず、見《み》る/\内《うち》に色《いろ》が変《かは》つて、危《あぶな》くなつた。
 医者《いしや》も蒼《あを》くなつて、騒《さわ》いだが、神《かみ》の扶《たす》けか漸《やうや》う生命《いのち》は取留《とりと》まり、三|日《か》ばかりで血《ち》も留《とま》つたが、到頭《たうとう》腰《こし》が抜《ぬ》けた、固《もと》より不具《かたわ》。
 之《これ》が引摺《ひきず》つて、足《あし》を見《み》ながら情《なさけ》なさうな顔《かほ》をする、蟋蟀《きり/″\す》が※[#「怨」の「心」に代えて「手」、第4水準2−13−4]《も》がれた脚《あし》を口《くち》に啣《くは》へて泣《な》くのを見《み》るやう、目《め》もあてられたものではない。
 しまひには泣出《なきだ》すと、外聞《ぐわいぶん》もあり、少焦《すこぢれ》で、医者《いしや》は可恐《おそろし》い顔《かほ》をして睨《にら》みつけると、あはれがつて抱《だ》きあげる娘《むすめ》の胸《むね》に顔《かほ》をかくして縋《すが》る状《さま》に、年来《ねんらい》随分《ずゐぶん》と人《ひと》を手《て》にかけた医者《いしや》も我《が》を折《を》つて腕組《うでくみ》をして、はツといふ溜息《ためいき》。
 軈《やが》て父親《てゝおや》が迎《むかひ》にござつた、因果《いんぐわ》と諦《あきら》めて、別《べつ》に不足《ふそく》はいはなんだが、何分《なにぶん》小児《こども》が娘《むすめ》の手《て》を放《はな》れようといはぬので、医者《いしや》も幸《さひはひ》、言訳《いひわけ》旁《かた/″\》、
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