う此処《こゝ》を退《の》かつしやい、助《たす》けられたが不思議《ふしぎ》な位《くらゐ》、嬢様《ぢやうさま》別《べツ》してのお情《なさけ》ぢやわ、生命冥加《いのちみやうが》な、お若《わか》いの、屹《きツ》と修行《しゆぎやう》をさつしやりませ。)と又《また》一ツ背中《せなか》を叩《たゝ》いた、親仁《おやぢ》は鯉《こひ》を提《さ》げたまゝ見向《みむ》きもしないで、山路《やまぢ》を上《うへ》の方《かた》。
 見送《みおく》ると小《ちい》さくなつて、一|坐《ざ》の大山《おほやま》の背後《うしろ》へかくれたと思《おも》ふと、油旱《あぶらでり》の焼《や》けるやうな空《そら》に、其《そ》の山《やま》の巓《いたゞき》から、すく/\と雲《くも》が出《で》た、瀧《たき》の音《おと》も静《しづ》まるばかり殷々《ゐん/\》として雷《らい》の響《ひゞき》。
 藻抜《もぬ》けのやうに立《た》つて居《ゐ》た、私《わし》が魂《たましひ》は身《み》に戻《もど》つた、其方《そなた》を拝《をが》むと斉《ひと》しく、杖《つえ》をかい込《こ》み、小笠《をがさ》を傾《かたむ》け、踵《くびす》を返《かへ》すと慌《あはたゞ》しく、一|散《さん》に駆《か》け下《お》りたが、里《さと》に着《つ》いた時分《じぶん》は山《やま》は驟雨《ゆふだち》、親仁《おやぢ》が婦人《をんな》に齎《もた》らした鯉《こひ》もこのために活《い》きて孤家《ひとつや》に着《つ》いたらうと思《おも》ふ大雨《おほあめ》であつた。」
 高野聖《かうやひじり》は此《こ》のことについて、敢《あへ》て別《べつ》に註《ちう》して教《をしへ》を与《あた》へはしなかつたが、翌朝《よくてう》袂《たもと》を分《わか》つて、雪中《せつちう》山越《やまごし》にかゝるのを、名残《なごり》惜《を》しく見送《みおく》ると、ちら/\と雪《ゆき》の降《ふ》るなかを次第《しだい》に高《たか》く坂道《さかみち》を上《のぼ》る聖《ひじり》の姿《すがた》、恰《あたか》も雲《くも》に駕《が》して行《ゆ》くやうに見《み》えたのである。



底本:「新編 泉 鏡花集 第八巻」岩波書店
   2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
   1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
   1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
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