や》の家《いへ》であつたといふたが、其《そ》の家《いへ》の嬢様《ぢやうさま》ぢや。
 何《なん》でも飛騨《ひだ》一|円《ゑん》当時《たうじ》変《かは》つたことも珍《めづ》らしいこともなかつたが、唯《たゞ》取出《とりい》でゝいふ不思議《ふしぎ》は、此《こ》の医者《いしや》の娘《むすめ》で、生《うま》れると玉《たま》のやう。
 母親殿《おふくろどの》は頬板《ほゝツぺた》のふくれた、眦《めじり》の下《さが》つた、鼻《はな》の低《ひく》い、俗《ぞく》にさし乳《ぢゝ》といふあの毒々《どく/″\》しい左右《さいう》の胸《むね》の房《ふさ》を含《ふく》んで、何《ど》うして彼《あれ》ほど美《うつく》しく育《そだ》つたものだらうといふ。
 昔《むかし》から物語《ものがたり》の本《ほん》にもある、屋《や》の棟《むね》へ白羽《しらは》の征矢《そや》が立《た》つか、然《さ》もなければ狩倉《かりくら》の時《とき》貴人《あてびと》のお目《め》に留《と》まつて御殿《ごてん》に召出《めしだ》されるのは、那麼《あんな》のぢやと噂《うはさ》が高《たか》かつた。
 父親《てゝおや》の医者《いしや》といふのは、頬骨《ほゝぼね》のとがつた髯《ひげ》の生《は》へた、見得坊《みえばう》で傲慢《がうまん》、其癖《そのくせ》でもぢや、勿論《もちろん》田舎《ゐなか》には苅入《かりいれ》の時《とき》よく稲《いね》の穂《ほ》が目《め》に入《はい》ると、それから煩《わづ》らう、脂目《やにめ》、赤目《あかめ》、流行目《はやりめ》が多《おほ》いから、先生《せんせい》眼病《がんびやう》の方《はう》は少《すこ》し遣《や》つたが、内科《ないくわ》と来《き》てはからつぺた。外科《げくわ》なんと来《き》た日《ひ》にやあ、鬢付《びんつけ》へ水《みづ》を垂《た》らしてひやりと疵《きず》につける位《くらゐ》な処《ところ》。
 鰯《いわし》の天窓《あたま》も信心《しん/″\》から、其《それ》でも命数《めいすう》の尽《つ》きぬ輩《やから》は本復《ほんぷく》するから、外《ほか》に竹庵《ちくあん》養仙《やうせん》木斎《もくさい》の居《ゐ》ない土地《とち》、相応《さうおう》に繁昌《はんじやう》した。
 殊《こと》に娘《むすめ》が十六七、女盛《をんなざかり》となつて来《き》た時分《じぶん》には、薬師様《やくしさま》が人助《ひとだす》けに先生様《せんせいさま》の内《うち》へ生《うま》れてござつたといって、信心《しん/″\》渇仰《かつがう》の善男《ぜんなん》善女《ぜんによ》? 病男《びやうなん》病女《びやうぢよ》が我《われ》も我《われ》もと詰《つ》め懸《か》ける。
 其《それ》といふのが、はじまりは彼《か》の嬢様《ぢやうさま》が、それ、馴染《なじみ》の病人《びやうにん》には毎日《まいにち》顔《かほ》を合《あ》はせる所《ところ》から、愛相《あいさう》の一つも、あなたお手《て》が痛《いた》みますかい、甚麼《どんな》でございます、といつて手先《てさき》へ柔《やはらか》な掌《てのひら》が障《さは》ると第一番《だいいちばん》に次作兄《じさくあに》いといふ若《わか》いのゝ(りやうまちす)が全快《ぜんくわい》、お苦《くる》しさうなといつて腹《はら》をさすつて遣《や》ると水《みづ》あたりの差込《さしこみ》の留《と》まつたのがある、初手《しよて》は若《わか》い男《をとこ》ばかりに利《き》いたが、段々《だん/″\》老人《としより》にも及《およ》ぼして、後《のち》には婦人《をんな》の病人《びやうにん》もこれで復《なほ》る、復《なほ》らぬまでも苦痛《いたみ》が薄《うす》らぐ、根太《ねぶと》の膿《うみ》を切《き》つて出《だ》すさへ、錆《さ》びた小刀《こがたな》で引裂《ひツさ》く医者殿《いしやどの》が腕前《うでまへ》ぢや、病人《びやうにん》は七|顛《てん》八|倒《たう》して悲鳴《ひめい》を上《あ》げるのが、娘《むすめ》が来《き》て背中《せなか》へぴつたりと胸《むね》をあてゝ肩《かた》を押《おさ》へて居《ゐ》ると、我慢《がまん》が出来《でき》る、といつたやうなわけであつたさうな。
 一|時《しきり》彼《あ》の藪《やぶ》の前《まへ》にある枇杷《びは》の古木《ふるき》へ熊蜂《くまばち》が来《き》て可恐《おそろし》い大《おほき》な巣《す》をかけた。
 すると、医者《いしや》の内弟子《うちでし》で薬局《やくきよく》、拭掃除《ふきさうぢ》もすれば総菜畠《さうざいばたけ》の芋《いも》も堀《ほ》る、近《ちか》い所《ところ》へは車夫《しやふ》も勤《つと》めた、下男《げなん》兼帯《けんたい》の熊蔵《くまざう》といふ、其頃《そのころ》二十四五|歳《さい》、稀塩散《きゑんさん》に単舎利別《たんしやりべつ》を混《ま》ぜたのを瓶《びん》に盗《ぬす》んで、内《うち》が吝嗇《け
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