》ぢや、やい!)
 右左《みぎひだり》にして綱《つな》を引張《ひつぱ》つたが、脚《あし》から根《ね》をつけた如《ごと》くにぬつくと立《た》つて居《ゐ》てびくともせぬ。
 親仁《おやぢ》大《おほい》に苛立《いらだ》つて、叩《たゝ》いたり、打《ぶ》つたり、馬《うま》の胴体《どうたい》について二三|度《ど》ぐる/\と廻《ま》はつたが少《すこ》しも歩《ある》かぬ。肩《かた》でぶツつかるやうにして横腹《よこばら》に体《たい》をあてた時《とき》、漸《やうや》う前足《まへあし》を上《あ》げたばかり又《また》四|脚《あし》を突張《つツぱ》り抜《ぬ》く。
(嬢様《ぢやうさま》々々《/\》。)
と親仁《おやぢ》が喚《わめ》くと、婦人《をんな》は一寸《ちよいと》立《た》つて白《しろ》い爪《つま》さきをちよろちよろと真黒《まツくろ》に煤《すゝ》けた太《ふと》い柱《はしら》を楯《たて》に取《と》つて、馬《うま》の目《め》の届《とゞ》かぬほどに小隠《こがく》れた。
 其内《そのうち》腰《こし》に挟《はさ》んだ、煮染《にし》めたやうな、なへ/\の手拭《てぬぐひ》を抜《ぬ》いて克明《こくめい》に刻《きざ》んだ額《ひたひ》の皺《しは》の汗《あせ》を拭《ふ》いて、親仁《おやぢ》は之《これ》で可《よ》しといふ気組《きぐみ》、再《ふたゝ》び前《まへ》へ廻《まは》つたが、旧《きう》に依《よ》つて貧乏動《びんぼうゆるぎ》もしないので、綱《つな》に両手《りやうて》をかけて足《あし》を揃《そろ》へて反返《そりかへ》るやうにして、うむと総身《さうみ》の力《ちから》を入《い》れた。途端《とたん》に何《ど》うぢやい。
 凄《すさま》じく嘶《いなゝ》いて前足《まへあし》を両方《りやうはう》中空《なかぞら》へ飜《ひるがへ》したから、小《ちひさ》な親仁《おやぢ》は仰向《あふむ》けに引《ひツ》くりかへつた、づどんどう、月夜《つきよ》に砂煙《すなけぶり》が※[#「火+發」、42−10]《ぱツ》と立《た》つ。
 白痴《ばか》にも之《これ》は可笑《をかし》かつたらう、此時《このとき》ばかりぢや、真直《まツすぐ》に首《くび》を据《す》ゑて厚《あつ》い唇《くちびる》をばくりと開《あ》けた、大粒《おほつぶ》な歯《は》を露出《むきだ》して、那《あ》の宙《ちゆう》へ下《さ》げて居《ゐ》る手《て》を風《かぜ》で煽《あふ》るやうに、はらり/\。

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