着けろ、早くつけてくれ。」
 昼は潟魚《かたうお》の市《いち》も小さく立つ。――村の若い衆の遊び処《どこ》へ、艪数《ろかず》三十とはなかつたから、船の難はなかつた。が、堤尻《どてじり》を駈上《かけあが》つて、掛茶屋《かけぢゃや》を、やゝ念入りな、間近《まぢか》な一《いち》ぜんめし屋へ飛込《とびこ》んだ時は、此の十七日の月の気勢《けはい》も留《と》めぬ、さながらの闇夜《あんや》と成つて、篠《しの》つく雨に風が荒《すさ》んだ。
 侘《わび》しい電燈さへ、一点燭《いってんしょく》の影もない。
 めし屋の亭主は、行燈《あんどう》とも、蝋燭《ろうそく》とも言はず、真裸《まっぱだか》で慌《あわ》て惑《まど》つて、
「お仏壇へ線香ぢや、線香ぢや。」
 と、ふんどしを絞つて喚《わめ》いた。
 恁《かか》る田舎《いなか》も、文明に馴《な》れて、近頃は……余分には蝋燭の用意もないのである。
「……然《そ》うだ、姉《あね》え。恁《こ》う言ふ時だ、掬《しゃく》つた月影は何《ど》うしたい。」
 と、座長の角面《かくづら》がつゞけ状《ざま》に舌打《したうち》をしながら言つた。
「真個《ほんとう》だわ。」
「まつたくさ。」
 太夫《たゆう》たちも声を合せた。
 不思議に、蛍火《ほたるび》の消えないやうに、小さな簪《かんざし》のほのめくのを、雨と風と、人と水の香《か》と、入乱《いりみだ》れた、真暗《まっくら》な土間《どま》に微《かすか》に認めたのである。
「あゝ、うつかりして忘れて居ました。船へ置いて来た、取つて来ませう。」
「ついでに、重詰《じゅうづめ》を願ひてえ。一升罎《いっしょうびん》は攫《さら》つて来た。」
 と黒男《くろおとこ》が、うは言《ごと》のやうに言ふ間《ま》もあらせず、
「やあ、水が来た、波が来た。……薄馬鹿《うすばか》が水に乗つて来た。」
 と青坊主《あおぼうず》がひよろ/\と爪立《つまだ》つて逃げあるく。
「お仏壇ぢや、お仏壇ぢや、お仏壇へ線香ぢや。」
「はい、取つて来ましたよ。」
 と言ふ、娘の手にした畚《びく》を溢《あふ》れて、湧《わ》く影は、青いさゝ蟹《がに》の群れて輝くばかりである。
「光を……月を……影を……今。」
 と凜《りん》と言ふと、畚を取つて身構へた。向へる壁の煤《すす》も破《やれ》めも、はや、ほの明るく映さるゝそのたゞ中へ、袂《たもと》を払つてパツと投げた
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング