実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」
「ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。」
「大きな店らしいのに、寂寞《ひっそり》している。何屋だろう。」
「有名な、湯葉屋です。」
「湯葉屋――坊主になり損《そこな》った奴の、慈姑《くわい》と一所に、大好きなものだよ。豆府の湯へ箱形の波を打って、皮が伸びて浮く処をすくい上げる。よく、東の市場で覗《のぞ》いたっけ。……あれは、面白い。」
「入ってみましょう。」
「障子は開いている――ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……可《い》いかい。」
「何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、――見学に、ほほほ。」
掃清めた広い土間に、惜《おし》いかな、火の気がなくて、ただ冷たい室《むろ》だった。妙に、日の静寂間《しじま》だったと見えて、人の影もない。窓の並んだ形が、椅子をかたづけた学校に似ていたが、一列に続いて、ざっと十台、曲尺《かねじゃく》に隅を取って
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