よ。
 お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号《あいず》に袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、――ああ、可恐《こわ》い、と思うと、極《きま》ったように、私の袂《たもと》を引張《ひっぱっ》たっけ、しっかりと持って――左の、ここん処に坐《すわ》っていて、」
 と猫板の下になる、膝のあたりを熟《じっ》と視《み》た。……
「煙管《きせる》?」
「ああ、」
「上げましょう。……」
 と、トンと払《はた》いて、
「あい。……どうしたんです、それから、可厭《いや》ね、何だか私は、」と袖を合わせる。
「するとだ……まだその踏切を越えて腕車《くるま》を捜したッてまでにも行《ゆ》かず……其奴《そいつ》の風采《ふうつき》なんぞ悉《くわ》しく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気《おぼろげ》に、まあ、見ただけをね、喋舌《しゃべ》ってる中《うち》に、その……何だ。
 向う角の女郎屋《じょろや》の三階の隅に、真暗《まっくら》な空へ、切って嵌《は》めて、裾《すそ》をぼかしたように部屋へ蚊帳《かや》を釣って、寂然《しん》と寝ているのが、野原の辻堂に紙帳《しちょう》でも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。
 その何だよ。……
 蚊帳の前へ。」
「ちょいと、」と梅次は、痙攣《ひッつ》るばかり目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って膝をずらした。
「大丈夫、大丈夫、」
 と民弥はまたわずかに笑《えみ》を含みつつ、
「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。
 大きな蜘蛛《くも》が下りたように、行燈《あんどう》の前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行《ある》いたろう。が、宙を行《ゆ》くようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。
 京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後《うしろ》になったらしい。
 遣手《やりて》です、風が、大引前《おおびけまえ》を見廻ったろう。
 それが見えると、鉄棒《かなぼう》が遠くを廻った。……カラカラ、……カン
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