「お客様ですか。」
沢が、声を掛けようとして、思はず行詰《ゆきづま》つた時、向うから先んじて振向《ふりむ》いた。
「私です。」
「お入んなさいましな、待つて居たの。屹《きっ》と寝られなくつて在《い》らつしやるだらうと思つて、」
障子の破れに、顔が艶麗《あでやか》に口の綻《ほころ》びた時に、さすがに凄《すご》かつた。が、寂《さみ》しいとも、夜半《よなか》にとも、何とも言訳《いいわけ》などするには及ばぬ。
「御勉強でございますか。」
我ながら相応《そぐ》はない事を云つて、火桶《ひおけ》の此方《こなた》へ坐つた時、違棚《ちがいだな》の背皮の文字が、稲妻《いなずま》の如く沢の瞳《ひとみ》を射《い》た、他《ほか》には何もない、机の上なるも其の中の一冊である。
沢は思はず、跪《ひざまず》いて両手を支《つ》いた。やがて門生《もんせい》たらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。
時に、見返つた美女《たおやめ》の風采《とりなり》は、蓮葉《はすは》に見えて且《か》つ気高く、
「何《ど》うなすつたの。」
沢は仔細を語つたのである……
聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、
「頼母《たのも》しいのねえ、貴下《あなた》は……えゝ、知つて居ますとも、多日《ひさしく》御一所《ごいっしょ》に居たんですもの。」
「では、あの、奥様。」
と、片手を支《つ》きつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。
「まあ、嬉しい!」
と派手な声の、あとが消えて、じり/\と身を緊《し》めた、と思ふと、ほろりとした。
「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを御馳走《ごちそう》しませう……めしあがれ。」
と云ふ。最《も》う晴《はれ》やかに成つて、差寄《さしよ》せる盆に折敷《おりし》いた白紙《しらかみ》の上に乗つたのは、たとへば親指の尖《さき》ばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの……
「栃《とち》の実の餅《もち》よ。」
同じものを、来る途《みち》の爺《じじい》が茶店《ちゃみせ》でも売つて居た。が、其の形は宛然《まるで》違ふ。
「貴下《あなた》、気味が悪いんでせう……」
と顔を見て又|微笑《ほほえ》みつゝ、
「真個《ほんとう》の事を言ひませうか、私は人間ではないの。」
「えゝ!」
「鸚鵡《おうむ》なの、」
「…………」
「真白な鸚鵡の鳥なの。此の御本《ごほん》の先生を、最《も》う其は……贔屓《ひいき》な夫人があつて、其の方《かた》が私を飼つて、口移《くちうつ》しに餌《え》を飼つたんです。私は接吻《キッス》をする鳥でせう。而《そ》してね、先生の許《とこ》へ贈りものになつて、私は行つたんです。
先生は私に口移しが出来ないの……然《そ》うすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。
私は中に立つて、其の夫人と、先生とに接吻《キッス》をさせるために生れました。而《そ》して、遙々《はるばる》東印度《ひがしインド》から渡つて来たのに……口惜《くやし》いわね。
其で居て、傍《そば》に置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。
雀《すずめ》や燕《つばめ》でないのだもの、鸚鵡が町家《まちや》の屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て引籠《ひきこも》つて、先生の小説ばかり読んで居ます。
貴下《あなた》、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」
と不思議な美しい其の餅《もち》を、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。
で、ぐいと引寄せられた。
「恁《こ》うして、さ。」
と、櫛巻《くしまき》の其の水々《みずみず》とあるのを、がつくりと額《ひたい》の消《き》ゆるばかり、仰いで黒目勝《くろめがち》な涼《すずし》い瞳《ひとみ》で凝《じっ》と、凝視《みつ》めた。白い頬《ほお》が、滑々《すべすべ》と寄つた時、嘴《くちばし》が触れたのであらう、……沢は見る/\鼻のあたりから、あの女の乳房を開《ひら》く、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く美女《たおやめ》の顔を見ながら、甘さ、得《え》も言はれぬ其の餅を含んだ、心《こころ》消々《きえぎえ》と成る。山颪《やまおろし》に弗《ふっ》と灯《ひ》が消えた。
と婦《おんな》の全身、廂《ひさし》を漏《も》る月影に、たら/\と人の姿の溶ける風情《ふぜい》に、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、真紅《しんく》に透通《すきとお》るのを覚えたのである。
「それでは、……よく先生にお習ひなさいよ。」
東雲《しののめ》の気《き》爽《さわやか》に、送つて来て別れる時、つと高く通《みち》しるべの松明《たいまつ》を挙げて、前途《ゆくて》を示して云つた。其の火は朝露《あさつゆ》に晃々《きらきら》と、霧を払つて、満山《まんざん》の木《こ》の葉《は》に映つ
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング