貴婦人
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)焙《ほう》じる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)頃|芬《ぷん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+發」、105−14]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
番茶を焙《ほう》じるらしい、いゝ香気《におい》が、真夜中とも思ふ頃|芬《ぷん》としたので、うと/\としたやうだつた沢《さわ》は、はつきりと目が覚めた。
随分《ずいぶん》遙々《はるばる》の旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、其《それ》は分らぬ。尤《もっと》も村里《むらざと》を遠く離れた峠《とうげ》の宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ/\と石を載せた、板葺屋根《いたぶきやね》も、松高き裏の峰も、今は、渓河《たにがわ》の流れの音も寂《しん》として、何も聞えず、時々|颯《さっ》と音を立てて、枕に響くのは山颪《やまおろし》である。
蕭殺《しょうさつ》たる此《こ》の秋の風は、宵《よい》は一際《ひときわ》鋭かつた。藍縞《あいじま》の袷《あわせ》を着て、黒の兵子帯《へこおび》を締めて、羽織も無い、沢の少《わか》いが痩《や》せた身体《からだ》を、背後《うしろ》から絞つて、長くもない額髪《ひたいがみ》を冷《つめた》く払つた。……其《そ》の余波《なごり》が、カラカラと乾《から》びた木《こ》の葉《は》を捲《ま》きながら、旅籠屋《はたごや》の框《かまち》へ吹込《ふきこ》んで、大《おおき》な炉《ろ》に、一簇《ひとむら》の黒雲《くろくも》の濃く舞下《まいさが》つたやうに漾《ただよ》ふ、松を焼く煙を弗《ふっ》と吹くと、煙は筵《むしろ》の上を階子段《はしごだん》の下へ潜《ひそ》んで、向うに真暗《まっくら》な納戸《なんど》へ逃げて、而《そ》して炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると一所《いっしょ》に、自在に掛《かか》つた大鍋《おおなべ》の底へ、ひら/\と炎が搦《から》んで、真白な湯気のむく/\と立つのが見えた。
其の湯気の頼母《たのも》しいほど、山気《さんき》は寒く薄い膚《はだ》を透《とお》したのであつた。午下《ひるさが》りに麓《ふもと》から攀上《よじのぼ》つた時は、其の癖|汗《あせ》ばんだくらゐだに……
表二階《おもてにかい》の、狭い三|畳《じょう》ばかりの座敷に通されたが、案内したものの顔も、漸《や》つと仄《ほのめ》くばかり、目口《めくち》も見えず、最《も》う暗い。
色の黒い小女《こおんな》が、やがて漆《うるし》の禿《は》げたやうな装《なり》で、金盥《かなだらい》に柄《え》を附けたらうと思ふ、大《おおき》な十能《じゅうのう》に、焚落《たきおと》しを、ぐわん、と装《も》つたのと、片手に煤《すす》けた行燈《あんどう》に点灯《とも》したのを提げて、みし/\と段階子《だんばしご》を上《あが》つて来るのが、底の知れない天井の下を、穴倉《あなぐら》から迫上《せりあが》つて来るやうで、ぱつぱつと呼吸《いき》を吹く状《さま》に、十能の火が真赤な脈を打つた……冷《ひややか》な風が舞込《まいこ》むので。
座敷へ入つて、惜気《おしげ》なく真鍮《しんちゅう》の火鉢へ打撒《ぶちま》けると、横に肱掛窓《ひじかけまど》めいた低い障子が二枚、……其の紙の破《やぶれ》から一文字《いちもんじ》に吹いた風に、又|※[#「火+發」、105−14]《ぱっ》としたのが鮮麗《あざやか》な朱鷺色《ときいろ》を染《そ》めた、あゝ、秋が深いと、火の気勢《けはい》も霜《しも》に染《そ》む。
行燈《あんどう》の灯《ひ》は薄もみぢ。
小女《こおんな》は尚《な》ほ黒い。
沢は其のまゝにじり寄つて、手を翳《かざ》して俯向《うつむ》いた。一人旅の姿は悄然《しょんぼり》とする。
がさ/\、がさ/\と、近いが行燈《あんどう》の灯は届かぬ座敷の入口、板廊下の隅に、芭蕉《ばしょう》の葉を引摺《ひきず》るやうな音がすると、蝙蝠《こうもり》が覗《のぞ》く風情《ふぜい》に、人の肩がのそりと出て、
「如何様《いかがさま》で、」
とぼやりとした声。
「え?」と沢は振向《ふりむ》いて、些《ち》と怯《おび》えたらしく聞返《ききかえ》す、……
「按摩《あんま》でな。」
と大分|横柄《おうへい》……中に居るものの髯《ひげ》のありなしは、よく其の勘《かん》で分ると見える。ものを云ふ顔が、反返《そりかえ》るほど仰向《あおむ》いて、沢の目には咽喉《のど》ばかり。
「お療治は如何様で。」
「まあ、可《よ》ご
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング