ざんした。」
 と旅なれぬ少《わか》ものは慇懃《いんぎん》に云つた。
「はい、お休み。」
 と其でも頭《こうべ》を下げたのを見ると、抜群なる大坊主《おおぼうず》。
 で、行燈《あんどう》に伸掛《のしかか》るかと、ぬつくりと起《た》つたが、障子を閉める、と沙汰《さた》が無い。
 前途《ゆくて》に金色《こんじき》の日の輝く思ひの、都をさしての旅ながら、恁《かか》る山家《やまが》は初旅《はつたび》で、旅籠屋《はたごや》へあらはれる按摩の事は、古い物語で読んだばかりの沢は、つく/″\とものの哀《あわれ》を感じた。

        二

 沢は薄汚《うすよご》れた、唯《ただ》それ一個《ひとつ》の荷物の、小さな提革鞄《さげかばん》を熟《じっ》と視《み》ながら、蒼《あお》い形《なり》で、さし俯向《うつむ》いたのである。
 爾時《そのとき》、さつと云ひ、さつと鳴り、さら/\と響いて、小窓の外を宙を通る……冷《つめた》い裳《もすそ》の、すら/\と木《こ》の葉《は》に触つて……高嶺《たかね》をかけて星の空へ軽く飛ぶやうな音を聞いた。
 吹頻《ふきしき》つた秋の風が、夜《よる》は姿をあらはして、人に言葉を掛けるらしい。
 宵《よい》には其の声さへ、寂《さび》しい中にも可懐《なつか》しかつた。
 さて、今聞くも同じ声。
 けれども、深更《しんこう》に聞く秋の声は、夜中にひそ/\と門《かど》を行《ゆ》く跫音《あしおと》と殆《ほとん》ど斉《ひと》しい。宵の人通りは、内に居るものに取つて誰《たれ》かは知らず知己《ちかづき》である。が、更《ふ》けての跫音は、敵《かたき》かと思ふ隔《へだ》てがある。分けて恋のない――人を待つ思《おもい》の絶えた――一人旅の奥山家《おくやまが》、枕に音《おと》づるゝ風は我を襲《おそ》はむとする殺気を含む。
 処《ところ》で……沢が此処《ここ》に寝て居る座敷は――其の家も――宵に宿つた旅籠屋《はたごや》ではない。
 あの、小女《こおんな》が来て、それから按摩の顕《あらわ》れたのは、蔵屋《くらや》と言ふので……今宿つて居る……此方《こなた》は、鍵屋《かぎや》と云ふ……此の峠《とうげ》に向合《むかいあ》つた二軒旅籠の、峰を背後《うしろ》にして、崖《がけ》の樹立《こだち》の蔭《かげ》に埋《う》まつた寂《さみ》しい家で。前《ぜん》のは背戸《せど》がずつと展《ひら》けて、向うの谷で劃《くぎ》られるが、其の間《あいだ》、僅少《わずか》ばかりでも畠《はたけ》があつた。
 峠には此の二軒の他《ほか》に、別な納戸《なんど》も廏《うまや》も無い、これは昔から然《そ》うだと云ふ。
「峠、お泊りでごいせうな。」
 麓《ふもと》へ十四五|町《ちょう》隔《へだた》つた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店《ちゃみせ》に憩《いこ》つた時、裏に鬱金木綿《うこんもめん》を着けた縞《しま》の胴服《ちゃんちゃんこ》を、肩衣《かたぎぬ》のやうに着た、白髪《しらが》の爺《じい》の、霜《しも》げた耳に輪数珠《わじゅず》を掛けたのが、店前《みせさき》に畏《かしこま》つて居て聞いたので。其処《そこ》の敷《しき》ものには熊の皮を拡げて、目の処《ところ》を二つゑぐり取つたまゝの、而《そ》して木の根のくり抜《ぬき》の大火鉢《おおひばち》が置いてあつた。
 背戸口《せどぐち》は、早《は》や充満《みちみち》た山霧《やまぎり》で、岫《しゅう》の雲を吐《は》く如く、幹《みき》の半《なか》ばを其の霧で蔽《おお》はれた、三抱《みかかえ》四抱《よかかえ》の栃《とち》の樹《き》が、すく/\と並んで居た。
 名にし負《お》ふ栃木峠《とちのきとうげ》よ! 麓《ふもと》から一日がかり、上《のぼ》るに従ひ、はじめは谷に其の梢《こずえ》、やがては崖に枝|組違《くみちが》へ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、一時《ひとしきり》路《みち》は真暗《まっくら》な夜《よる》と成つた。……梢の風は、雨の如く下闇《したやみ》の草の径《こみち》を、清水が音を立てて蜘蛛手《くもで》に走る。
 前途《ゆくて》を遙《はるか》に、ちら/\と燃え行く炎が、煙《けぶり》ならず白い沫《しぶき》を飛ばしたのは、駕籠屋《かごや》が打振《うちふ》る昼中《ひるなか》の松明《たいまつ》であつた。
 漸《やっ》と茶店《ちゃや》に辿着《たどりつ》くと、其の駕籠は軒下《のきした》に建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い毛布《けっと》に包まつた病人らしい漢《おとこ》を乗せたが、ゆらりと上《あが》つて、すた/\行く……
 峠越《とうげごえ》の此の山路《やまみち》や、以前も旧道《ふるみち》で、余り道中の無かつた処《ところ》を、汽車が通じてからは、殆《ほとん》ど廃駅《はいえき》に成つて、猪《いのしし》も狼《おおかみ》も又戻つたと言はれる。其の年、烈《はげ》しい
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング