「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨《またが》りたり。
 魂消《たまげ》たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面《おもて》を鳩《あつ》め、あけらかんと頤《おとがい》を垂れて、おそらくは画《え》にも観《み》るべからざるこの不思議の為体《ていたらく》に眼《め》を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動《ふるまい》とを載せてましぐらに馳《は》せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復《かえ》りて響動《どよ》めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
 例の老夫は頭を悼《ふ》り悼り呟《つぶや》けり。
「いや洒落《しゃれ》どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
 不審の眉《まゆ》を攅《あつ》めたる前《さき》の世話人は、腕を拱《こまぬ》きつつ座中を※[#「目+句」、
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