ました、それは一昨年です。最愛の妻でした。」
 彼は口|吃《きっ》しつつ目瞬《またたき》した。
「一人の小児《こども》も亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児《こ》でした。」
 と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫《まつげ》を濡らした。
「妻《かない》の記念《かたみ》だったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。
 感ずる仔細《しさい》がありまして、私《わたくし》は望んで僻境《へききょう》孤立の、奥|山家《やまが》の電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。
 そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端《いろりばた》の火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。
 が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵《かぎ》がなければなりません。
 鍵は棄てたんです。
 令嬢の袖の奥へ魂は納めました。
 誓って私《わたくし》は革鞄を開けない。
 御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁
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