して帰らない、戻りますまい。
 小刀《こがたな》をお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
 鍵は投棄てました、決心をしたのです。私《わたくし》は皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
 ただし、この革鞄の中には、私《わたくし》一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌《いはい》。実際、生命と斉《ひと》しいものを残らず納《い》れてあるのです。
 が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
 小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
 私《わたくし》は――」
 とここで名告《なの》った。

       八

「年は三十七です。私《わたくし》は逓信《ていしん》省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」
 と俯向《うつむ》いて探って、鉄縁の時計を見た。
「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
 
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