ました旅行案内を、もとへ突込《つっこ》んで、革鞄の口をかしりと啣《くわ》えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊《くび》って、引緊《ひきし》めたと思う手応《てごたえ》がありました。
真白《まっしろ》な薄《すすき》の穂か、窓へ散込んだ錦葉《もみじ》の一葉《ひとは》、散際《ちりぎわ》のまだ血も呼吸《いき》も通うのを、引挟《ひっぱさ》んだのかと思ったのは事実であります。
それが紫に緋《ひ》を襲《かさ》ねた、かくのごとく盛粧《せいしょう》された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
諸君、私《わたくし》は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未《いま》だかつて一度も私《わたくし》ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私《わたくし》がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
いや
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