射たように、旅客は苦しげに眉を顰《ひそ》めながら、
「鍵はありません。」
「ございませんと?……」
「鍵は棄てました。」
とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮《かいちぢ》めた腕組を衝《つ》と解いて、一度|投出《ほうりだ》すごとくばたりと落した。その手で、挫《ひし》ぐばかり確《しか》と膝頭《ひざがしら》を掴《つか》んで、呼吸《いき》が切れそうな咳《せき》を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取《ききとり》を願いとうございます。私《わたくし》は、ここに隣席においでになる、窈窕《ようちょう》たる淑女。」
彼は窈窕たる淑女と云った。
「この令嬢の袖を、袂《たもと》をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」
と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す目が空ざまに天井に上ずって、
「……申兼ねましたが私《わたくし》です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
退屈まぎれに見ており
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