処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――
 お供の、奴《やっこ》の腰巾着《こしぎんちゃく》然とした件《くだん》の革鞄の方が、物騒でならないのであった。
 果せるかな。
 小春|凪《なぎ》のほかほかとした可《い》い日和《ひより》の、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向側《むこうがわ》を立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬杖《ほおづえ》をついていたが、
「酒、酒。」
 と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼白《あおじろ》い顔も、もう酔ったように※[#「火+赫」、第3水準1−87−66]《かッ》と勢《いきおい》づいて、この日向で、かれこれ燗《かん》の出来ているらしい、ペイパの乾いた壜《びん》、膚触《はだざわ》りも暖《あたたか》そうな二合詰を買って、これを背広の腋《わき》へ抱えるがごとくにして席へ戻る、と忙《いそが》わしく革鞄の口に手を掛けた。
 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般《いつか》の時のように。
 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許《くちもと》ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。
 それを熟《じっ》と、酒も飲まずに凝視《みつ》めている。
 私も弁当と酒を買った。
 大《おおき》な蝦蟆《がま》とでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟敷《さじき》で飲むような気はしない、が蓋《けだ》しそれは僭上《せんじょう》の沙汰で。
「まず、飲もう。」
 その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面《おもて》を打った、懐しく床しい、留南奇《とめき》がある。
 この高崎では、大分旅客の出入りがあった。
 そこここ、疎《まばら》に透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小児《こども》よりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちに挟《はさま》って。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、件《くだん》の大革鞄もその中《うち》の数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高を被《かぶ》ったのが仕切の板戸に突立《つッた》っているのさえ出来ていた。
 私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶麗《あでやか》な女が一人腰を掛けたのである。
 待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀娜《あだ》めく。
 内端《うちわ》に、品よく、高尚と云おう。
 前挿《まえざし》、中挿《なかざし》、鼈甲《べっこう》の照りの美しい、華奢《きゃしゃ》な姿に重そうなその櫛笄《くしこうがい》に対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。

       四

 一目見ても知れる、濃い紫の紋着《もんつき》で、白襟、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端正《きちん》と堅く挿した風采《とりなり》は、桃の小道を駕籠《かご》で遣《や》りたい。嫁に行《ゆ》こうとする女であった。……
 指の細く白いのに、紅《あか》いと、緑なのと、指環《ゆびわ》二つ嵌《は》めた手を下に、三指ついた状《さま》に、裾模様《すそもよう》の松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、褄《つま》を深く正しく居ても、溢《こぼ》るる裳《もすそ》の紅《くれない》を、しめて、踏みくぐみの雪の羽二重《はぶたえ》足袋。幽《かすか》に震えるような身を緊《し》めた爪先《つまさき》の塗駒下駄《ぬりこまげた》。
 まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖《おそれ》と、涙《なんだ》と、笑《えみ》とは、ただその深く差俯向《さしうつむ》いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢《びん》に包まれて、簪《かんざし》の穂に顕《あらわ》るる。……窈窕《ようちょう》たるかな風采、花嫁を祝するにはこの言《ことば》が可《い》い。
 しかり、窈窕たるものであった。
 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜《いとし》らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微《かすか》な元結《もとゆい》のゆらめきである。
 耳許《みみもと》も清らかに、玉を伸べた頸許《えりもと》の綺麗さ。うらすく紅《くれない》の且つ媚《なまめ》かしさ。
 袖の香も目前《めさき》に漾《ただよ》う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊《し》め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜《びん》の口を抜くのを差控えたほどであった。
 汽車に連るる、野も、畑も
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング