、畑《はた》の薄《すすき》も、薄に交《まじわ》る紅《くれない》の木の葉も、紫|籠《こ》めた野末の霧も、霧を刷《は》いた山々も、皆|嫁《ゆ》く人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃《もゆ》るがごとく見え初《そ》めた妙義の錦葉《もみじ》と、蒼空《あおぞら》の雲のちらちらと白いのも、ために、紅《べに》、白粉《おしろい》の粧《よそおい》を助けるがごとくであった。
 一つ、次の最初の停車場《ステイション》へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい鄙《ひな》めいた男女《なんにょ》の顔が押累《おしかさな》って室を覗《のぞ》いた。
 累《かさな》りあふれて、ひょこひょこと瓜《うり》の転がる体《てい》に、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗込《のぞきこ》む。
 私の窓にも一つ来た。
 と見ると、板戸に凭《もた》れていた羽織袴が、
「やあ!」
 と耳の許《とこ》へ、山高帽を仰向《あおむ》けに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包《ふろしきづつみ》を大《おおき》な懐中に入れて、茶紬《ちゃつむぎ》を着た親仁《おやじ》も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。
「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」
 とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺《しこん》――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃|流行《はや》る半コオトを幅広に着た、横肥《よこぶと》りのした五十|恰好《かっこう》。骨組の逞《たく》ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目|眇《めっかち》で、その眇の方をト上へ向けて渋《しぶ》のついた薄毛の円髷《まるまげ》を斜向《はすっかい》に、頤《あご》を引曲《ひんま》げるようにして、嫁御が俯向《うつむ》けの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻《あぶ》の飛ぶように、じろじろと飛廻しに※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》していたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。

       五

 少し揺《ゆす》るようにした。
 指に平打《ひらうち》の黄金《きん》の太く逞《たく》ましいのを嵌《は》めていた。
 肖《に》も着かぬが、乳母ではない、継《まま》しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
 白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤《おとがい》で幽《かすか》に頷《うなず》いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓《しな》って、緞子《どんす》の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違《たが》わず、品の可《い》い、ちと寂しいが美しい、瞼《まぶた》に颯《さっ》と色を染めた、薄《すすき》の綿に撫子《なでしこ》が咲く。
 ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉《も》んだ褄《つま》の崩れに、捌《さば》いた紅《くれない》。紅糸《べにいと》で白い爪先《つまさき》を、きしと劃《しき》ったように、そこに駒下駄が留まったのである。
 南無三宝《なむさんぽう》! 私は恥を言おう。露に濡羽《ぬれば》の烏が、月の桂《かつら》を啣《くわ》えたような、鼈甲《べっこう》の照栄《てりは》える、目前《めのさき》の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件《くだん》の大革鞄を忘れていた。
 何と、その革鞄の口に、紋着《もんつき》の女の袖が挟《はさま》っていたではないか。
 仕出来《しでか》した、さればこそはじめた。
 私はあえて、この老怪の歯が引啣《ひきくわ》えていたと言おう。……
 いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
 重量《おもみ》が、自然と伝《つたわ》ったろう、靡《なび》いた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
「御免なさいまし。」
 と呼吸《いき》の下で云うと、襟の白さが、颯《さっ》と紫を蔽《おお》うように、はなじろんで顔をうつむけた。
 赤ら顔は見免《みのが》さない。
「お前、どうしたのかねえ。」
 かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪《かみ》を掻《かき》しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひんむし》る。
「革鞄に挟った。」
「どうしてな。」
 と二三人立掛ける。
 窓へ、や、えんこらさ、と攀上《よじのぼ》った若いものがある。
 駅夫の長い腕が引払《ひッぱら》った。
 笛は、胡桃《くるみ》を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
 汽車は猶
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