革鞄の怪
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)詰《つま》らない

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|間《けん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》き
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       一

「そんな事があるものですか。」
「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰《つま》らないと思う後《あと》から声がします。」
「声がします。」
「確かに聞えるんです。」
 と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構《あるおおがまえ》の旅館の奥の、母屋《おもや》から板廊下を遠く隔てた離座敷《はなれざしき》らしい十畳の広間に泊った。
 はじめ、停車場《ステイション》から俥《くるま》を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」
 で、上靴を穿《は》かせて、つるつるする広い取着《とッつき》の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段《はしごだん》を上《あが》って行《ゆ》くので、連《つれ》の男は一段踏掛けながら慌《あわただ》しく云った。
「三階か。」
「へい、四階《しかい》でございます。」と横に開いて揉手《もみで》をする。
「そいつは堪《たま》らんな、下座敷は無いか。――貴方《あなた》はいかがです。」
 途中で見た上阪《のぼりざか》の中途に、ばりばりと月に凍《い》てた廻縁《まわりえん》の総硝子《そうがらす》。紅色《べにいろ》の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透《みとお》しに高い四階は落着かない。
「私も下が可《い》い。」
「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他《ほか》には唯今《ただいま》どうも、へい、へい。」
「古くっても構わん。」
 とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。
 人の事は云われないが、連《つれ》の男も、身体《からだ》つきから様子、言語《ものいい》、肩の瘠《や》せた処、色沢《いろつや》の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上《しんしょう》ありたけを詰込《つめこ》んだ、と自ら称《とな》える古革鞄《ふるかばん》の、象を胴切りにしたような格外の大《おおき》さで、しかもぼやけた工合《ぐあい》が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
 何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
 私は枕を擡《もた》げずにはいられなかった。
 時に、当人は、もう蒲団《ふとん》から摺出《ずりだ》して、茶縞《ちゃじま》に浴衣を襲《かさ》ねた寝着《ねまき》の扮装《なり》で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角《まっしかく》。
 で、二|間《けん》の――これには掛《かけ》ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件《くだん》の大革鞄があるのである。
 白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨《ふく》だみを揺《ゆす》った形が、元来、仔細《しさい》の無い事はなかった。
 今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨《わらび》を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
 私は妙な事を思出したのである。
 やがて、十八九年も経《た》ったろう。小児《こども》がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間《まっぴるま》。両側に小屋を並べた見世《みせ》ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
 血だらけ、白粉《おしろい》だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多《あまた》の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
 続き、上下《うえした》におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖《ふすま》に黄金箔《きんぱく》、引手に朱の総《ふさ》を提げるまで手を籠《こ》めた……芝居がかりの五十三次。
 岡崎の化猫が、白髪《しらが》の牙《きば》に血を滴らして、破簾《やれみす》よりも顔の青い、女を宙に啣《くわ》えた絵の、無慙《むざん》さが眼《まなこ》を射る。

       二

「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 と嗾《そそ》る。……
 が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上《もみあ》げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散《まきち》らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
 この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴《はおりはかま》が一人、真中《まんなか》に、白襟、空色|紋着《もんつき》の、廂髪《ひさしがみ》で痩《や》せこけた女が一人|交《まじ》っ
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