て、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言《ものい》わず。
 ただ、時々……
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然《もくねん》として澄まし返る。
 容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣《おもむき》。※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕《あらわ》れて、裡《うち》の面白さが思遣《おもいや》られる。
 うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から推《お》せば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵囲《むしろがこ》いの廂合《ひあわい》の路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。
 正面を逆に、背後《うしろ》向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新筵《あらむしろ》二三枚。
 前に青竹の埒《らち》を結廻《ゆいまわ》して、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個《ひとつ》……※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しても視《なが》めても、雨上《あまあが》りの湿気《しけ》た地《つち》へ、藁《わら》の散《ちら》ばった他《ほか》に何にも無い。
 中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量《おもみ》を溢《あぶ》まして、筵の上に仇光《あだびか》りの陰気な光沢《つや》を持った鼠色のその革鞄には、以来、大海鼠《おおなまこ》に手が生えて胸へ乗《のっ》かかる夢を見て魘《うな》された。
 梅雨期《つゆどき》のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿《しめりけ》を帯びていたのに、年数も経《た》ったり、今は皺目《しわめ》がえみ割れて乾燥《はしゃ》いで、さながら乾物《ひもの》にして保存されたと思うまで、色合、恰好《かっこう》、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪《あ》せた鼠の半外套《はんがいとう》の袖《そで》に引着けた、その一人の旅客を認めたのである。
 私は熟《じっ》と視《み》て、――長野泊りで、明日《あす》は木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、擽《くすぐ》ったい心地がした。
 しかも、その中から、怪しげな、不気味な、凄《すご》いような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。
 少くとも、あの、絵看板を畳込《たたみこ》んで持っていて、汽車が隧道《トンネル》へ入った、真暗《まっくら》な煙の裡《うち》で、颯《さっ》と化猫が女を噛《か》む血だらけな緋《ひ》の袴《はかま》の、真赤《まっか》な色を投出《ほうりだ》しそうに考えられた。
 で、どこまで一所になるか、……稀有《けう》な、妙な事がはじまりそうで、危《あぶな》っかしい中《うち》にも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。
 けれども、その男を、年配、風采《ふうさい》、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈祷者《きとうじゃ》、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占術家《うらないや》だの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪切《わぎり》にした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。
 一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知己《ちかづき》になって知れたが、都合あって、飛騨《ひだ》の山の中の郵便局へ転任となって、その任に趣《おもむ》く途中だと云う。――それにいささか疑《うたがい》はない。
 が、持主でない。その革鞄である。

       三

 這奴《しゃつ》、窓硝子《まどがらす》の小春日《こはるび》の日向《ひなた》にしろじろと、光沢《つや》を漾《ただよ》わして、怪しく光って、ト構えた体《てい》が、何事をか企謀《たくら》んでいそうで、その企謀《たくらみ》の整うと同時に、驚破《すわ》事を、仕出来《しでか》しそうでならなかったのである。
 持主の旅客は、ただ黙々として、俯向《うつむ》いて、街樹《なみき》に染めた錦葉《もみじ》も見ず、時々、額を敲《たた》くかと思うと、両手で熟《じっ》と頸窪《ぼんのくぼ》を圧《おさ》える。やがて、中折帽《なかおれぼう》を取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭髪《かみのけ》を引掻《ひっか》く。巻莨《まきたばこ》に点じて三分の一を吸うと、半《なかば》三分の一を瞑目《めいもく》して黙想して過して、はっと心着いたように、火先を斜《ななめ》に目の前へ、ト翳《かざ》しながら、熟《じっ》と灰になるまで凝視《みつ》めて、慌てて、ふッふッと吹落して、後《あと》を詰らなそうにポタリと棄《す》てる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企謀《たくら》んだ
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