予《ためら》わず出た。
 一人|発奮《はずみ》をくって、のめりかかったので、雪頽《なだれ》を打ったが、それも、赤ら顔の手も交《まじ》って、三四人大革鞄に取《とり》かかった。
「これは貴方のですか。」
 で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。
 なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で行《ゆ》くものか。
「これは堅い、堅い。」
「巌丈な金具じゃええ。」
 それ言わぬ事ではない。
「こりゃ開かぬ、鍵《かぎ》が締まってるんじゃい。」
 と一まず手を引いたのは、茶紬《ちゃつむぎ》の親仁《おやじ》で。
 成程、と解《よ》めた風で、皆白けて控えた。更《あらた》めて、新しく立ちかかったものもあった。
 室内は動揺《どよ》む。嬰児《こども》は泣く。汽車は轟《とどろ》く。街樹《なみき》は流るる。
「誰の麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》じゃい。」
 と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。
 彼は仰向《あおむ》けに目を瞑《つぶ》った。瞼《まぶた》を掛けて、朱を灌《そそ》ぐ、――二合|壜《びん》は、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を拱《こまぬ》く。
 女は頤《おとがい》深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差俯向《さしうつむ》く。

       六

「この次で下車《おり》るのじゃに。」
 となぜか、わけも知らない娘を躾《たしな》めるように云って、片目を男にじろりと向け直して、
「何てまあ、馬鹿々々しい。」
 と当着《あてつ》けるように言った。
 が、まだ二人ともなにも言わなかった時、連《つれ》と目配せをしながら、赤ら顔の継母《ままおや》は更《あらた》めて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を屈《かが》めた。
 突如《いきなり》噛着《かみつ》き兼ねない剣幕だったのが、飜《ひるがえ》ってこの慇懃《いんぎん》な態度に出たのは、人は須《すべか》らく渠等《かれら》に対して洋服を着るべきである。
 赤ら顔は悪く切口上で、
「旦那、どちらの麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》か存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身体《からだ》でございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。」
 声が眉間《みけん》を射たように、旅客は苦しげに眉を顰《ひそ》めながら、
「鍵はありません。」
「ございませんと?……」
「鍵は棄てました。」
 とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮《かいちぢ》めた腕組を衝《つ》と解いて、一度|投出《ほうりだ》すごとくばたりと落した。その手で、挫《ひし》ぐばかり確《しか》と膝頭《ひざがしら》を掴《つか》んで、呼吸《いき》が切れそうな咳《せき》を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取《ききとり》を願いとうございます。私《わたくし》は、ここに隣席においでになる、窈窕《ようちょう》たる淑女。」
 彼は窈窕たる淑女と云った。
「この令嬢の袖を、袂《たもと》をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」
 と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す目が空ざまに天井に上ずって、
「……申兼ねましたが私《わたくし》です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
 退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込《つっこ》んで、革鞄の口をかしりと啣《くわ》えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊《くび》って、引緊《ひきし》めたと思う手応《てごたえ》がありました。
 真白《まっしろ》な薄《すすき》の穂か、窓へ散込んだ錦葉《もみじ》の一葉《ひとは》、散際《ちりぎわ》のまだ血も呼吸《いき》も通うのを、引挟《ひっぱさ》んだのかと思ったのは事実であります。
 それが紫に緋《ひ》を襲《かさ》ねた、かくのごとく盛粧《せいしょう》された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
 諸君、私《わたくし》は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未《いま》だかつて一度も私《わたくし》ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
 東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私《わたくし》がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
 お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
 いや
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