、ようなんですぐらいだったら、私《わたくし》もかような不埒《ふらち》、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。
確《たしか》に御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔を更《あらた》めて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。
余り唐突な狼藉《ろうぜき》ですから、何かその縁組について、私《わたくし》のために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――」
七
「実に、寸毫《すんごう》[#ルビの「すんごう」は底本では「すんがう」]といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執着《しゅうぢゃく》と、愚癡《ぐち》と、卑劣と、悪趣と、怨念《おんねん》と、もっと直截《ちょくせつ》に申せば、狂乱があったのです。
狂気《きちがい》が。」
と吻《ほっ》と息して、……
「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなりになる。プラットフォームも婚礼に出迎《でむかい》の人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリと錠《じょう》を下《おろ》しました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温柔《おんじゅう》でおいでなさる、心弱い女性《にょしょう》は、さような狼藉にも、人中の身を恥じて、端《はした》なく声をお立てにならないのだと存じました。
しかし、ただいま、席をお立ちになった御容子《ごようす》を見れば、その時まで何事も御存じではなかったのが分って、お心遣いの時間が五分たりとも少なかった、のみならず、お身体《からだ》の一箇処にも紅《あか》い点も着かなかった事を、――実際、錠をおろした途端には、髪|一条《ひとすじ》の根にも血をお出しなすったろうと思いました――この祝言を守護する、黄道吉日の手に感謝します。
けれども、それもただわずかの間で、今の思《おもい》はどうおいでなさるだろうと御推察申上げるばかりなのです。
自白した罪人はここに居《お》ります。遁《にげ》も隠れもしませんから、憚《はばか》りながら、御萱堂《ごけんどう》とお見受け申します年配の御婦人は、私《わたくし》の前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背《せな》を抱く御介抱が願いたい。」
一室は悉《ことごと》く目を注いだ、が、淑女は崩折《くずお》れもせず、柔《やわらか》な褄《つま》はずれの、彩《いろ》ある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。
ひとりかの男のみ、堅く突立《つった》って、頬を傾《かし》げて、女を見返ることさえ得《え》しない。
赤ら顔も足も動かさなかった。
「あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。
外ではありません。それの革鞄の鍵《かぎ》を棄てた事です。私《わたくし》は、この、この窓から遥《はるか》に巽《たつみ》の天《そら》に雪を銀線のごとく刺繍《ぬいとり》した、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私《わたくし》は目を瞑《つぶ》った、ほとんだ気が狂《ちが》ったのだとお察しを願いたい。
為業《しわざ》は狂人《きちがい》です、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私《わたくし》です。
が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発見《みいだ》せますまい、決して帰らない、戻りますまい。
小刀《こがたな》をお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
鍵は投棄てました、決心をしたのです。私《わたくし》は皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
ただし、この革鞄の中には、私《わたくし》一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌《いはい》。実際、生命と斉《ひと》しいものを残らず納《い》れてあるのです。
が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
私《わたくし》は――」
とここで名告《なの》った。
八
「年は三十七です。私《わたくし》は逓信《ていしん》省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」
と俯向《うつむ》いて探って、鉄縁の時計を見た。
「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング