令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。
駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。
また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加えを願う。それは甘んじて受けます。
いずれも命を致さねばなりますまい。
それは、しかし厭《いと》いません。
が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁の中《うち》に、私《わたくし》が最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、私《わたくし》が連れられて、膝行《しっこう》して当日の婿君の前に参る事です。
絞罪《こうざい》より、斬首《ざんしゅ》より、その極刑をお撰びなさるが宜《よろ》しい。
途中、田畝《たんぼ》道で自殺をしますまでも、私《わたくし》は、しかしながらお従い申さねばなりますまい。
あるいは、革鞄をお切りなさるか、お裂きになるか。……
すべて、いささかも御斟酌《ごしんしゃく》に及びません。
諸君が姑息《こそく》の慈善心をもって、些少《さしょう》なりとも、ために御斟酌下さろうかと思う、父母も親類も何にもない。
妻女《かない》は亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。」
彼は口|吃《きっ》しつつ目瞬《またたき》した。
「一人の小児《こども》も亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児《こ》でした。」
と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫《まつげ》を濡らした。
「妻《かない》の記念《かたみ》だったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。
感ずる仔細《しさい》がありまして、私《わたくし》は望んで僻境《へききょう》孤立の、奥|山家《やまが》の電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。
そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端《いろりばた》の火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。
が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵《かぎ》がなければなりません。
鍵は棄てたんです。
令嬢の袖の奥へ魂は納めました。
誓って私《わたくし》は革鞄を開けない。
御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、御手段が願いたい。
お聴《きき》を煩らわしました。――別に申す事はありません。」
彼は、従容《しょうよう》として席に復した。が、あまたたび額の汗を拭《ぬぐ》った。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄然《りつぜん》とした。
室内は寂然《ひっそり》した。彼の言は、明晰《めいせき》に、口|吃《きっ》しつつも流暢《りゅうちょう》沈着であった。この独白に対して、汽車の轟《とどろき》は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。
停車場《ステイション》に着くと、湧返《わきかえ》ったその混雑さ。
羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆《いっき》を思え。
時に、継母《ままおや》の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上《もっとも》常識的なものであった。
「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」
「いいえ、貴方。」
判然《はっきり》した優しい含声《ふくみごえ》で、屹《きっ》と留《とど》めた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着《そでつけ》の糸をきりきりと裂いた、籠めたる心に揺《ゆら》めく黒髪、島田は、黄金の高彫《たかぼり》した、輝く斧《おの》のごとくに見えた。
紫の襲《かさね》の片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、膚《はだ》を裂いたか、女の片身に、颯《さっ》と流るる襦袢《じゅばん》の緋鹿子《ひがのこ》。
プラットフォームで、真黒《まっくろ》に、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目瞼《まぶた》の紅梅。黄金《きん》を溶《とか》す炎のごとき妙義山の錦葉《もみじ》に対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕に颯《さっ》と飜《ひるが》えって、雪なす小手を翳《かざ》しながら、黒煙《くろけむり》の下になり行く汽車を遥《はるか》に見送った。
百合若《ゆりわか》の矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。
つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。
そこで知己《ちかづき》になった。
[#地から1字上げ]大正三(一九一四)年二月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文
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