んですもの。覆す手があれば、それは活《い》きている手なんです。その手に縋《すが》って、海の中に活きられると思ったのです。
公子 (聞きつつ莞爾《かんじ》とす)やあ、(女房に)……この女は豪《えら》いぞ! はじめから歎いておらん、慰め賺《すか》す要はない。私はしおらしい。あわれな花を手活《ていけ》にしてながめようと思った。違う! これは楽《たのし》く歌う鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。
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手を挙ぐ。たちまち闥《ドア》開けて、三人の侍女、二罎《ふたびん》の酒と、白金の皿に一対の玉盞《たまのさかずき》を捧げて出づ。女房盞を取って、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を両方に注《つ》ぐ。
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女房 めし上りまし。
美女 (辞宜《じぎ》す)私は、ちっとも。
公子 (品よく盞を含みながら)貴女、少しも辛うない。
女房 貴女の薄紅《うすべに》なは桃の露、あちらは菊花の雫《しずく》です。お国では御存じありませんか。海には最上の飲料《のみしろ》です。お気が清《すず》しくなります、召あがれ。
美女 あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽《おお》うて、うつむき飲む)は。(と小《ちいさ》き呼吸《いき》す)何という涼しい、爽《さわ》やいだ――蘇生《よみがえ》ったような気がします。
公子 蘇生ったのではないでしょう。更に新しい生命《いのち》を得たんだ。
美女 嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私がこうして活《い》きていますのを、見せてやりとう存じます。
公子 別に見せる要はありますまい。
美女 でも、人は私が死んだと思っております。
公子 勝手に思わせておいて可《い》いではないか。
美女 ですけれども、ですけれども。
公子 その情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。
美女 ええ、父をはじめ、浦のもの、それから皆《みんな》に知らせなければ残念です。
公子 (卓子《テエブル》に胸を凭出《よせいだ》す)帰りたいか、故郷へ。
美女 いいえ、この宮殿、この宝玉、この指環、この酒、この栄華、私は故郷へなぞ帰りたくはないのです。
公子 では、何が知らせたいのです。
美女 だって、貴方、人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。
公子 (色はじめて鬱《うつ》す)むむ。
美女 (微酔の瞼《まぶた》花やかに)誰も知らない命は、生命《いのち》ではありません。この宝玉も、この指環も、人が見ないでは、ちっとも価値《ねうち》がないのです。
公子 それは不可《いか》ん。(卓子《テエブル》を軽く打って立つ)貴女は栄燿《えよう》が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値《ねうち》をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(近寄る)人は自分で活きれば可《い》い、生命《いのち》を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。
美女 ええ、ですから……来るお庭にも敷詰めてありました、あの宝玉一つも、この上お許し下さいますなら、きっと慈善に施して参ります。
公子 ここに、用意の宝蔵がある。皆、貴女のものです。施すは可《い》い。が、人知れずでなければ出来ない、貴女の名を顕《あらわ》し、姿を見せては施すことはならないんです。
美女 それでは何にもなりません。何の効《かい》もありません。
公子 (色やや嶮《けわ》し)随分、勝手を云う。が、貴女の美しさに免じて許す。歌う鳥が囀《さえず》るんだ、雲雀《ひばり》は星を凌《しの》ぐ。星は蹴落《けおと》さない。声が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注《つ》げ。
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女房酌す。
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美女 (怯《おく》れたる内端《うちわ》な態度)もうもう、決して、虚飾《みえ》、栄燿《えよう》を見せようとは思いません。あの、ただ活きている事だけを知らせとう存じます。
公子 (冷《ひやや》かに)止《よ》したが可《よ》かろう。
美女 いいえ、唯今《ただいま》も申します通り、故郷《くに》へ帰って、そこに留《とど》まります気は露ほどもないのです。ちょっとお許しを受けまして生命《いのち》のあります事だけを。
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公子、無言にして頭《かぶり》掉《ふ》る。美女、縋《すが》るがごとくす。
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あの、お許しは下さいませんか。ちっとの外出《そとで》もなりませんか。
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公子 (爽《さわやか》に)獄屋ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少《きんしょう》の憂《うれい》あり、不平あるものさえ一日も一個《ひとり》たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果《はて》、陸の終《おわり》、思って行《ゆ》かれない処はない。故郷《ふるさと》ごときはただ一飛《ひととび》、瞬《まばた》きをする間《ま》に行《ゆ》かれる。(愍《あわれ》むごとくしみじみと顔を視《み》る)が、気の毒です。
貴女にその驕《おごり》と、虚飾《みえ》の心さえなかったら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だった。貴女、これ。
(美女顔を上ぐ。その肩に手を掛く)ここに来た、貴女はもう人間ではない。
美女 ええ。(驚く。)
公子 蛇身になった、美しい蛇《へび》になったんだ。
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美女、瞳を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
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その貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅《べに》、紫の鱗《うろこ》の光と、人間の目に輝くのみです。
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美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つつ、わななき震う。雪の指尖《ゆびさき》、思わず鬢《びん》を取って衝《つ》と立ちつつ)いいえ、いいえ、いいえ。どこも蛇にはなりません。一《い》、一枚も鱗はない。
公子 一枚も鱗はない、無論どこも蛇《へび》にはならない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼《まなこ》だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕《あらわ》す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云う声はただ、炎の舌が閃《ひらめ》く。吐《つ》く息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄《ゆおう》を流して草を爛《ただ》らす。長い袖は、腥《なまぐさ》い風を起して樹を枯らす。悶《もだ》ゆる膚《はだ》は鱗を鳴《なら》してのたうち蜿《うね》る。ふと、肉身のものの目に、その丈より長い黒髪の、三筋、五筋、筋を透《すか》して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思うが可《い》い。
美女 (髪みだるるまでかぶりを掉《ふ》る)嘘です、嘘です。人を呪《のろ》って、人を詛《のろ》って、貴方こそ、その毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇体になろう筈《はず》がない。遣《や》って下さい。故郷《くに》へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私の身が験《ため》したい。遣って下さい。故郷《くに》へ帰して下さい。
公子 大自在の国だ。勝手に行《ゆ》くが可《い》い、そして試すが可《よ》かろう。
美女 どこに、故郷《ふるさと》の浦は……どこに。
女房 あれあすこに。(廻廊の燈籠を指《ゆびさ》す。)
美女 おお、(身震《みぶるい》す)船の沈んだ浦が見える。(飜然《ひらり》と飛ぶ。……乱るる紅《くれない》、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯《さっ》と廻廊を突切《つッき》る。途端に、五個の燈籠|斉《ひと》しく消ゆ。廻廊暗し。美女、その暗中に消ゆ一舞台の上段のみ、やや明《あかる》く残る。)
公子 おい、その姿見の蔽《おおい》を取れ。陸《くが》を見よう。
女房 困った御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞台暗くなる。――やがて明《あかる》くなる時、花やかに侍女皆あり。)
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公子。椅子に凭《よ》る。――その足許《あしもと》に、美女倒れ伏す――疾《と》く既に帰り来《きた》れる趣。髪すべて乱れ、袂《たもと》裂け帯崩る。
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公子 (玉盞《ぎょくさん》を含みつつ悠然として)故郷はどうでした。……どうした、私が云った通《とおり》だろう。貴女の父の少《わか》い妾《めかけ》は、貴女のその恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲をもってその蛇を狙ったではありませんか。渠等《かれら》は第一、私を見てさえ蛇体だと思う。人間の目はそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いていては不可《いか》ん。
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美女|悲泣《ひきゅう》す。
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不可ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰《ひそ》む。)
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女房 (背を擦《さす》る)若様は、歎悲《かなし》むのがお嫌《きらい》です。御性急でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。
美女 ええ、貴女方は楽《たのし》いでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣死《なきじに》に死ぬんです。
公子 死ぬまで泣かれて堪《たま》るものか。あんな故郷《くに》に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。ここには悲哀のあることを許さんぞ。
美女 お許しなくば、どうなりと。ええ、故郷《ふるさと》の事も、私の身体《からだ》も、皆《みんな》、貴方の魔法です。
公子 どこまで疑う。(忿怒《ふんぬ》の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと云うに。俺《おれ》の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
美女 ええ、ええ、お殺しなさいまし。活《い》きられる身体《からだ》ではないのです。
公子 (憤然として立つ)黒潮等は居《お》らんか。この女を処置しろ。
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言下に、床板を跳ね、その穴より黒潮騎士《こくちょうきし》、大錨《おおいかり》をかついで顕《あらわ》る。騎士二三、続いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が倒《さかしま》に押立てたる錨に縛《いまし》む。錨の刃越《はごし》に、黒髪の乱るるを掻掴《かいつか》んで、押仰向《おしあおむ》かす。長槍《ながやり》の刃、鋭くその頤《あぎと》に臨む。
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女房 ああ、若様。
公子 止めるのか。
女房 お床が血に汚れはいたしませんか。
公子 美しい女だ。花を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》るも同じ事よ、花片《はなびら》と蕊《しべ》と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に蔵《しま》っておこう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。)
美女 貴方、こんな悪魚の牙《きば》は可厭《いや》です。御卑怯《おひきょう》な。見ていないで、御自分でお殺しなさいまし。
(公子、頷《うなず》き、無言にてつかつかと寄り、猶予《ためら》わず剣《つるぎ》を抜き、颯《さっ》と目に翳《かざ》し、衝《つ》と引いて斜《ななめ》に構う。面《おもて》を見合す。)
ああ、貴方。私を斬《き》る、私を殺す、その、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清《すず》しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可《よ》さ。もう、故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい。(莞爾《にっこり》する。)
公子 解け。
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騎士等、美女を助けて、片隅に退《の》く。公子、剣《つるぎ》を提《ひっさ》げたるまま、
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こちらへおいで。(美
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