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騎士一同 (槍《やり》を伏せて、裾《うずくま》り、同音に呼ぶ)若様。
公子 おお、帰ったか。
騎士一 もっての外な、今ほどは。
公子 何でもない、私は無事だ、皆御苦労だったな。
騎士一同 はッ。
公子 途中まで出向ったろう、僧都はどうしたか。
騎士一 あとの我ら夥間《なかま》を率いて、入道鮫を追掛けて参りました。
公子 よい相手だ、戦闘は観《み》ものであろう。――皆は休むが可《い》い。
騎士 槍は鞘《さや》に納めますまい、このまま御門を堅めまするわ。
公子 さまでにせずとも大事ない、休め。
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騎士等、礼拝して退場。侍女一、登場。
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侍女一 御安心遊ばしまし、疵《きず》を受けましたほどでもございません。ただ、酷《ひど》く驚きまして。
公子 可愛相《かわいそう》に、よく介抱してやれ。
侍女一 二人が附添っております、(廻廊を見込む)ああ、もう御廊下まで。(公子のさしずにより、姿見に錦の蔽《おおい》を掛け、闥《とびら》に入《い》る。)
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美女。先達《せんだつ》の女房に、片手、手を曳《ひ》かれて登場。姿を粛《しずか》に、深く差俯向《さしうつむ》き、面影やややつれたれども、さまで悪怯《わるび》れざる態度、徐《おもむろ》に廻廊を進みて、床を上段に昇る。昇る時も、裾捌《すそさば》き静《しずか》なり。
侍女三人、燈籠|二個《ふたつ》ずつ二人、一つを一人、五個《いつつ》を提げて附添い出で、一人々々、廻廊の廂《ひさし》に架《か》け、そのまま引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女をその上段、紅《あか》き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に礼して、美女に椅子を教う。
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女房 お掛け遊ばしまし。
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美女、据置かるる状《さま》に椅子に掛く。女房はその裳《もすそ》に跪居《ついい》る。
美女、うつむきたるまましばし、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据えて瞬《まばた》きせず。――間《ま》。
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公子 よく見えた。(無造作に、座を立って、卓子《テエブル》の周囲《まわり》に近づき、手を取らんと衝《つ》と腕《かいな》を伸ばす。美女、崩るるがごとくに椅子をはずれ、床に伏す。)
女房 どうなさいました、貴女《あなた》、どうなさいました。
美女 (声細く、されども判然)はい、……覚悟しては来ましたけれど、余りと言えば、可恐《おそろ》しゅうございますもの。
女房 (心付く)おお、若様。その鎧《よろい》をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのもごもっともでございます。
公子 解いても可《い》い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも可《よ》かろう。……最初に見た目はどこまでも附絡《つきまと》う。(美女に)貴女《あなた》、おい、貴女、これを恐れては不可《いか》ん、私はこれあるがために、強い。これあるがために力があり威がある。今も既にこれに因って、めしつかう女の、入道鮫に噛《か》まれたのを助けたのです。
美女 (やや面《おもて》を上ぐ)お召使が鮫の口に、やっぱり、そんな可恐《おそろし》い処なんでございますか。
公子 はははは、(笑う)貴女、敵のない国が、世界のどこにあるんですか。仇《あだ》は至る処に満ちている――ただ一人《いちにん》の娘を捧ぐ、……海の幸を賜われ――貴女の親は、既に貴女の仇なのではないか。ただその敵に勝てば可《い》いのだ。私は、この強さ、力、威あるがために勝つ。閨《ねや》にただ二人ある時でも私はこれを脱ぐまいと思う。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、仇から、世界から貴女を守護する。弱いもののために強いんです。毒竜の鱗《うろこ》は絡《まと》い、爪は抱《いだ》き、角《つの》は枕してもいささかも貴女の身は傷《きずつ》けない。ともにこの鎧に包まるる内は、貴女は海の女王なんだ。放縦に大胆に、不羈《ふき》、専横《せんおう》に、心のままにして差支えない。鱗に、爪に、角に、一糸掛けない白身《はくしん》を抱《いだ》かれ包まれて、渡津海《わたつみ》の広さを散歩しても、あえて世に憚《はばか》る事はない。誰の目にも触れない。人は指《ゆびさし》をせん。時として見るものは、沖のその影を、真珠の光と見る。指《ゆびさ》すものは、喜見城《きけんじょう》の幻景《まぼろし》に迷うのです。
 女の身として、優しいもの、媚《こび》あるもの、従うものに慕われて、それが何の本懐です。私は鱗をもって、角をもって、爪をもって愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。(従容《しょうよう》として椅子に戻る。)
美女 (起直り、会釈す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆して、ここへ、遠い海の中をお連れなすった、お力。道すがらはまたお使者《つかい》で、金剛石のこの襟飾《えりかざり》、宝玉のこの指環、(嬉しげに見ゆ)貴方《あなた》の御威徳はよく分りましたのでございます。
公子 津波|位《しき》、家来どもが些細《ささい》な事を。さあ、そこへお掛け。
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女房、介抱して、美女、椅子に直る。
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頸飾《くびかざり》なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けている、それは珊瑚だ。
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美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。
公子 あれは草です。較《くら》ぶればここのは大樹だ。椅子の丈は陸《くが》の山よりも高い。そうしている貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜《かぶと》の竜頭《たつがしら》は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱《しやち》ほどに見えようと思う。
美女 あの、人の目に、それが、貴方?
公子 譬喩《たとえ》です、人間の目には何にも見えん。
美女 ああ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、ここに、見ますれば私が裳《すそ》を曳《ひ》きます床も、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の一枚石。こうした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情《なさけ》のう存じます。
公子 いや、そんなに謙遜をするには当らん。陸《くが》には名山、佳水《かすい》がある。峻岳《しゅんがく》、大河がある。
美女 でも、こんな御殿はないのです。
公子 あるのを知らないのです。海底の琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹《にじ》に透いて見えるのに、更科《さらしな》の秋の月、錦《にしき》を染めた木曾の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉《もみじ》を織る竜田姫《たつたひめ》がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。知らない振《ふり》をして見ないんだろう。――陸《くが》は尊い、景色は得難い。今も、道中双六《どうちゅうすごろく》をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さえ手許《てもと》にはなかったのだ。絵も貴《とうと》い。
美女 あんな事をおっしゃって、絵には活《い》きたものは住んでおりませんではありませんか。
公子 いや、住居《すまい》をしている。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振《ふり》をしているんだから、決して人間の凡《すべ》てを貴いとは言わない、美《うつくし》いとは言わない。ただ陸《くが》は貴い。けれども、我が海は、この水は、一|畝《うね》りの波を起して、その陸を浸す事が出来るんだ。ただ貴く、美《うつくし》いものは亡《ほろ》びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦《ひとうら》を亡《ほろ》ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜《よろこ》ばねば不可《いけな》い、嬉しがらなければならない、悲しんではなりません。
女房 貴女、おっしゃる通りでございます。途中でも私《わたくし》が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎《なげ》きなさいます事はありません。
美女 いいえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。ただ歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子《ようす》を見せてやりたいと思うのです。
女房 人間の目には見えません。
美女 故郷《ふるさと》の人たちには。
公子 見えるものか。
美女 (やや意気ぐむ)あの、私の親には。
公子 貴女は見えると思うのか。
美女 こうして、活《い》きておりますもの。
公子 (屹《きっ》としたる音調)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るにどういう決心をしたのですか。
美女 それは死ぬ事と思いました。故郷《ふるさと》の人も皆そう思って、分けて親は歎き悲しみました。
公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなかろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと云った。その代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。
美女 けれども、父娘《おやこ》の情愛でございます。
公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭《かぶり》を掉《ふ》る)が、まあ、情愛としておく、それで。
美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚《なぎさ》の砂に、父の倒伏《たおれふ》しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処なのです。そして、後《あと》の歎《なげき》は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だったでございましょう。
公子 じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可《よ》かった。
美女 いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵《いえくら》に代っていたのでございます。
公子 可《よし》、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀《こぼ》ち、家を焼いて、もとの破蓑《やれみの》一領、網一具の漁民となって、娘の命乞《いのちごい》をすれば可かった。
美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗《のぞ》き、屏風《びょうぶ》を見越し、壁|襖《ふすま》に立って、責めわたり、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたッて、とそう思ったのでございます。
公子 貴女の父は、もとの貧民になり下るから娘を許して下さい、と、その海坊主に掛合《かけあ》ってみたのですか。みはしなかろう。そして、貴女を船に送出す時、磯《いそ》に倒れて悲しもうが、新しい白壁、艶《つや》ある甍《いらか》を、山際の月に照らさして、夥多《あまた》の奴婢《ぬひ》に取巻かせて、近頃呼入れた、若い妾《めかけ》に介抱されていたではないのか。なぜ、それが情愛なんです。
美女 はい。……(恥じて首低《うなだ》る。)
公子 貴女を責《せむ》るのではない。よしそれが人間の情愛なれば情愛で可《よ》い、私とは何の係わりもないから。ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷《ふるさと》を思うて、歎いては不可《いか》ん。悲しんでは不可んと云うのです。
美女 貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)私は始めから、決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人《うらびと》は可哀《あわれ》がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乗っても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るるものがあれば、それは生《しょう》あるもの、形あるもの、云うまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違いない。その上、威があり力があり、栄《さかえ》と光とあるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、さまで、慌騒《あわてさわ》ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかったんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命《いのち》はある
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