海神別荘
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)森厳藍碧《しんげんらんぺき》なる

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(例)髪|艶《つや》やかに

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(例)琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]殿
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時。
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現代。
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場所。
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海底の琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]殿。
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人物。
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公子。沖の僧都。(年老いたる海坊主)美女。博士。
女房。侍女。(七人)黒潮騎士。(多数)
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森厳藍碧《しんげんらんぺき》なる琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]殿裡《ろうかんでんり》。黒影《こくえい》あり。――沖の僧都《そうず》。
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僧都 お腰元衆。
侍女一 (薄色の洋装したるが扉《ドア》より出《い》づ)はい、はい。これは御僧《おそう》。
僧都 や、目覚しく、美しい、異《かわ》った扮装《いでたち》でおいでなさる。
侍女一 御挨拶《ごあいさつ》でございます。美しいかどうかは存じませんけれど、異った支度には違いないのでございます。若様、かねてのお望みが叶《かな》いまして、今夜お輿入《こしいれ》のございます。若奥様が、島田のお髪《ぐし》、お振袖と承りましたから、私《わたくし》どもは、余計そのお姿のお目立ち遊ばすように、皆して、かように申合せましたのでございます。
僧都 はあ、さてもお似合いなされたが、いずこの浦の風俗じゃろうな。
侍女一 度々海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいましょうのに。
僧都 いや、荒海を切って影を顕《あらわ》すのは暴風雨《あらし》の折から。如法《にょほう》たいてい暗夜《やみ》じゃに因って、見えるのは墓の船に、死骸《しがい》の蠢《うごめ》く裸体《はだか》ばかり。色ある女性《にょしょう》の衣《きぬ》などは睫毛《まつげ》にも掛《かか》りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼《あお》い炎の息を吹いても、素奴《しゃつ》色の白いはないか、袖の紅《あか》いはないか、と胴の間《ま》、狭間《はざま》、帆柱の根、錨綱《いかりづな》の下までも、あなぐり探いたものなれども、孫子《まごこ》は措《お》け、僧都においては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内じゃ。
侍女一 (笑う)お精進《しょうじん》でおいで遊ばします。もし、これは、桜貝、蘇芳貝《すおうがい》、いろいろの貝を蕊《しべ》にして、花の波が白く咲きます、その渚《なぎさ》を、青い山、緑の小松に包まれて、大陸の婦《おんな》たちが、夏の頃、百合、桔梗《ききょう》、月見草、夕顔の雪の装《よそおい》などして、旭《あさひ》の光、月影に、遥《はるか》に(高濶《こうかつ》なる碧瑠璃《へきるり》の天井を、髪|艶《つや》やかに打仰ぐ)姿を映します。ああ、風情な。美しいと視《なが》めましたものでございますから、私《わたくし》ども皆が、今夜はこの服装《なり》に揃えました。
僧都 一段とお見事じゃ。が、朝ほど御機嫌伺いに出ました節は、御殿《ごてん》、お腰元衆、いずれも不断の服装《なり》でおいでなされた。その節は、今宵、あの美女がこれへ輿入の儀はまだ極《きま》らなんだ。じたい人間は決断が遅いに因ってな。……それじゃに、かねてのお心掛《こころがけ》か。弥《いや》疾《と》く装《なり》が間に合うたもののう。
侍女一 まあ、貴老《あなた》は。私《わたくし》たちこの玉のような皆《みんな》の膚《はだ》は、白い尾花の穂を散らした、山々の秋の錦《にしき》が水に映ると同《おんな》じに、こうと思えば、ついそれなりに、思うまま、身の装《よそおい》の出来ます体でおりますものを。貴老はお忘れなさいましたか。
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貴老は。……貴老だとて違いはしません。緋《ひ》の法衣《ころも》を召そうと思えば、お思いなさいます、と右左、峯に、一本《ひともと》燃立つような。
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僧都 ま、ま、分った。(腰を屈《かが》めつつ、圧《おさ》うるがごとく掌《たなそこ》を挙げて制す)何とも相済まぬ儀じゃ。海の住居《すまい》の難有《ありがた》さに馴《な》れて、蔭日向《かげひなた》、雲の往来《ゆきき》に、潮《うしお》の色の変ると同様。如意自在《にょいじざい》心のまま、たちどころに身の装《よそおい》の成る事を忘れていました。
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なれども、僧都が身は、こうした墨染の暗夜《やみ》こそ可《よ》けれ、なまじ緋の法衣《ころも》など絡《まと》おうなら、ずぶ濡《ぬれ》の提灯《ちょうちん》じゃ、戸惑《とまどい》をした※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の魚《うお》じゃなどと申そう。圧《おし》も石も利く事ではない。(細く丈長き鉄《くろがね》の錨《いかり》を倒《さかしま》にして携えたる杖《つえ》を、軽《かろ》く突直す。)
いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ前《さき》に申上げたい儀で罷出《まかりで》た。若様へお取次を頼みましょ。
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侍女一 畏《かしこま》りました。唯今《ただいま》。……あの、ちょうど可《い》い折に存じます。
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右の方《かた》闥《ドア》を排して行《ゆ》く。
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僧都 (謹みたる体《てい》にて室内を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す。)
 はあ、争われぬ。法衣《ころも》の袖に春がそよぐ。
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(錨の杖を抱《いだ》きて彳《たたず》む。)
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公子 (衝《つ》と押す、闥《ドア》を排《ひら》きて、性急に登場す。面《おも》玉のごとく※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》丈《た》けたり。黒髪を背に捌《さば》く。青地錦の直垂《ひたたれ》、黄金《こがね》づくりの剣《つるぎ》を佩《は》く。上段、一階高き床の端に、端然として立つ。)
 爺《じ》い、見えたか。
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侍女五人、以前の一人を真先《まっさき》に、すらすらと従い出づ。いずれも洋装。第五の侍女、年最も少《わか》し。二人は床の上、公子《こうし》の背後《うしろ》に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女はその背《うしろ》に立つ。
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僧都 は。(大床《おおゆか》に跪《ひざまず》く。控えたる侍女一、件《くだん》の錨の杖を預る)これはこれは、御休息の処を恐入りましてござります。
公子 (親しげに)爺い、用か。
僧都 紺青《こんじょう》、群青《ぐんじょう》、白群《びゃくぐん》、朱、碧《へき》の御蔵の中より、この度の儀に就きまして、先方へお遣わしになりました、品々の類《たぐい》と、数々を、念のために申上げとうござりまして。
公子 (立ちたるまま)おお、あの女の父親に遣《や》った、陸で結納《ゆいのう》とか云うものの事か。
僧都 はあ、いや、御聡明なる若様。若様にはお覚違《おぼえちが》いでござります。彼等|夥間《なかま》に結納と申すは、親々が縁を結び、媒妁人《なこうど》の手をもち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。しかるにこの度は、先方の父親が、若様の御支配遊ばす、わたつみの財宝に望《のぞみ》を掛け、もしこの念願の届くにおいては、眉目容色《みめきりょう》、世に類《たぐい》なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓いました。すなわち、彼が望みの宝をお遣《つかわ》しになりましたに因って、是非に及ばず、誓言《せいごん》の通り、娘を波に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた数の宝は、彼等が結納と申そうより、俗に女の身代《みのしろ》と云うものにござりますので。
公子 (軽く頷《うなず》く)可《よし》、何にしろすこしばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。
僧都 いやいや、鱗《うろこ》一枚、一草《ひとくさ》の空貝《うつせがい》とは申せ、僧都が承りました上は、活達なる若様、かような事はお気煩《きむず》かしゅうおいでなさりましょうなれども、老《おい》のしょうがに、お耳に入れねばなりませぬ。お腰元衆もお執成《とりなし》。(五人の侍女に目遣《めづかい》す)平《ひら》にお聞取りを願わしゅう。
侍女三 若様、お座へ。
公子 (顧みて)椅子《いす》をこちらへ。
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侍女三、四、両人して白き枝珊瑚《えださんご》の椅子を捧げ、床の端近《はしぢか》に据う。大|隋円形《だえんけい》の白き琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の、沈みたる光沢を帯べる卓子《テエブル》、上段の中央にあり。枝のままなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅《あか》きは花のごとく、白きは霞のごときを、相対して置く。侍女等が捧出《ささげい》でて位置を変えて据えたるは、その白き方《かた》一脚なり。
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僧都 真鯛《まだい》大小八千枚。鰤《ぶり》、鮪《まぐろ》、ともに二万|疋《びき》。鰹《かつお》、真那鰹《まながつお》、各《おのおの》一万本。大比目魚《おおひらめ》五千枚。鱚《きす》、魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]《ほうぼう》、鯒《こち》、※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]身魚《あいなめ》、目張魚《めばる》、藻魚《もうお》、合せて七百|籠《かご》。若布《わかめ》のその幅六丈、長さ十五|尋《ひろ》のもの、百枚|一巻《ひとまき》九千連。鮟鱇《あんこう》五十袋。虎河豚《とらふぐ》一頭。大の鮹《たこ》一番《ひとつがい》。さて、別にまた、月の灘《なだ》の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(この分、手にて仕方す)周囲《まわり》三抱《みかかえ》の分にござりまして。ええ、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の珠《たま》三十三|粒《りゅう》、八分の珠百五粒、紅宝玉三十|顆《か》、大《おおき》さ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙《あおめのう》の盆に装《かざ》り、緑宝玉、三百顆、孔雀《くじゃく》の尾の渦巻の数に合せ、紫の瑠璃《るり》の台、五色に透いて輝きまする鰐《わに》の皮三十六枚、沙金《さきん》の包《つつみ》七十|袋《たい》。量目《はかりめ》約百万両。閻浮檀金《えんぶだごん》十斤也。緞子《どんす》、縮緬《ちりめん》、綾《あや》、錦《にしき》、牡丹《ぼたん》、芍薬《しゃくやく》、菊の花、黄金色《こんじき》の董《すみれ》、銀覆輪《ぎんぷくりん》の、月草、露草。
侍女一 もしもし、唯今《ただいま》のそれは、あの、残らず、そのお娘御《むすめご》の身の代《しろ》とかにお遣わしの分なのでございますか。
僧都 残らず身の代と?……はあ、いかさまな。(心付く)不重宝《ぶちょうほう》。これはこれは海松《みる》ふさの袖に記して覚えのまま、潮《うしお》に乗って、颯《さっ》と読流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い処へ、数々ゆえに。ええええ、真鯛大小八千枚。
侍女一 鰤、鮪ともに二万疋。鰹、真那鰹|各《おのおの》一万本。
侍女二 (僧都の前にあり)大比目魚五千枚。鱚、魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の類合せて七百籠。
侍女三 (公子の背後にあり)若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの百枚|一巻《ひとまき》九千連。
侍女四 (同じく公子の背後に)鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹|一番《ひとつがい》。まあ……(笑う。侍女皆笑う。)
僧都 
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