(額の汗を拭《ふ》く)それそれさよう、さよう。
公子 (微笑しつつ)笑うな、老人は真面目《まじめ》でいる。
侍女五 (最も少《わか》し。斉《ひと》しく公子の背後に附添う。派手に美《うるわ》しき声す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対《つい》の一株、丈八尺、周囲《まわり》三抱《みかかえ》の分。一寸の玉三十三粒……雪の真珠、花の真珠。
侍女一 月の真珠。
僧都 しばらく。までじゃまでじゃ、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲三抱の分までにござった。(公子に)鶴の卵ほどの紅宝玉、孔雀の渦巻の緑宝玉、青瑪瑙の盆、紫の瑠璃の台。この分は、天なる(仰いで礼拝す)月宮殿に貢《みつぎ》のものにござりました。
公子 私もそうらしく思って聞いた。僧都、それから後に言われた、その董、露草などは、金銀宝玉の類は云うまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの方《かた》へ遣わしたものか。
僧都 綾、錦、牡丹、芍薬、縺《もつ》れも散りもいたしませぬを、老人の申条《もうしじょう》、はや、また海松《みる》のように乱れました。ええええ、その董、露草は、若様、この度の御旅行につき、白雪《はくせつ》の竜馬《りゅうめ》にめされ、渚《なぎさ》を掛けて浦づたい、朝夕の、茜《あかね》、紫、雲の上を山の峰へお潜《しの》びにてお出ましの節、珍しくお手に入《い》りましたを、御姉君《おんあねぎみ》、乙姫《おとひめ》様へ御進物の分でござりました。
侍女一 姫様は、閻浮檀金《えんぶだごん》の一輪挿《いちりんざし》に、真珠の露でお活《い》け遊ばし、お手許《てもと》をお離しなさいませぬそうにございます。
公子 度々は手に入らない。私も大方、姉上に進《あ》げたその事であろうと思った。
僧都 御意。娘の親へ遣わしましたは、真鯛より数えまして、珊瑚一対……までに止《とど》まりました。
侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります陸《おか》の人には、鯛も比目魚も千と万、少ない数ではございますまいに、僅《わずか》な日の間に、ようお手廻し、お遣わしになりましてございます。
僧都 さればその事。一国、一島、津や浦の果《はて》から果を一網《ひとあみ》にもせい、人間|夥間《なかま》が、大海原《おおうなばら》から取入れます獲《え》ものというは、貝に溜《たま》った雫《しずく》ほどにいささかなものでござっての、お腰元衆など思うてもみられまい、鉤《はり》の尖《さき》に虫を附けて雑魚《ざこ》一筋を釣るという仙人業《せんにんわざ》をしまするよ。この度の娘の父は、さまでにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月《くらげ》ほどにしょぼりと拡げて、泡にも足らぬ小魚を掬《しゃく》う。入《いれ》ものが小さき故に、それが希望《のぞみ》を満しますに、手間の入《い》ること、何ともまだるい。鰯《いわし》を育てて鯨にするより歯痒《はがゆ》い段の行止《ゆきどま》り。(公子に向う)若様は御性急じゃ。早く彼が願《ねがい》を満たいて、誓《ちかい》の美女を取れ、と御意ある。よって、黒潮、赤潮の御手兵をちとばかり動かしましたわ。赤潮の剣《つるぎ》は、炎の稲妻、黒潮の黒い旗は、黒雲の峰を築《つ》いて、沖から※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と浴びせたほどに、一浦《ひとうら》の津波となって、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戸《かどせど》かけて、畳天井、一斉《いちどき》に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござったよ。
侍女三 まあ、お勇ましい。
公子 (少し俯向《うつむ》く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。
僧都 いや、いや、黒潮と赤潮が、密《そ》と爪弾《つまはじ》きしましたばかり。人命を断つほどではござりませなんだ。もっとも迷惑をせば、いたせ、娘の親が人間同士の間《なか》でさえ、自分ばかりは、思い懸けない海の幸を、黄金《こがね》の山ほど掴《つか》みましたに因って、他の人々の難渋ごときはいささか気にも留めませぬに、海のお世子《よとり》であらせられます若様。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭当りませぬ儀でございます。
公子 (頷《うなず》く)そんなら可《よし》――僧都。
僧都 はは。(更《あらた》めて手を支《つ》く。)
公子 あれの親は、こちらから遣わした、娘の身の代《しろ》とかいうものに満足をしたであろうか。
僧都 御意、満足いたしましたればこそ、当御殿、お求めに従い、美女を沈めました儀にござります。もっとも、真鯛、鰹、真那鰹、その金銀の魚類のみでは、満足をしませなんだが、続いて、三抱え一対の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端《は》出づる月の光に、真紫に輝きまするを夢のように抱きました時、あれの父親は白砂に領伏《ひれふ》し、波の裙《すそ》を吸いました。あわれ竜神、一命も捧げ奉ると、御恩のほどを難有《ありがた》がりましたのでござります。
公子 (微笑す)親仁《おやじ》の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月《くらげ》が殖《ふ》えて、迷惑をするよ。
侍女五 あんな事をおっしゃいます。
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一同笑う。
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公子 けれども僧都、そんな事で満足した、人間の慾《よく》は浅いものだね。
僧都 まだまだ、あれは深い方でござります。一人娘の身に代えて、海の宝を望みましたは、慾念の逞《たくまし》い故でござりまして。……たかだかは人間同士、夥間《なかま》うちで、白い柔《やわらか》な膩身《あぶらみ》を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら売り渡すのが、峠の関所かと心得ます。
公子 馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)恋しい女よ。望めば生命《いのち》でも遣《や》ろうものを。……はは、はは。
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微笑す。
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侍女四 お思われ遊ばした娘御は、天地《あめつち》かけて、波かけて、お仕合せでおいで遊ばします。
侍女一 早くお着き遊《あそば》せば可《よ》うございます。私《わたくし》どももお待遠《まちどお》に存じ上げます。
公子 道中の様子を見よう、旅の様子を見よう。(闥《ドア》の外に向って呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越《よこ》せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の蔽《おおい》を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)
僧都も御覧。
僧都 失礼ながら。(膝行《しっこう》して進む。侍女等、姿見を卓子《テエプル》の上に据え、錦の蔽を展《ひら》く。侍女等、卓子の端の一方に集る。)
公子 (姿見の面《おも》を指《ゆびさ》し、僧都を見返る)あれだ、あれだ。あの一点の光がそれだ。お前たちも見ないか。
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舞台転ず。しばし暗黒、寂寞《せきばく》として波濤《はとう》の音聞ゆ。やがて一個《ひとつ》、花白く葉の青き蓮華燈籠《れんげどうろう》、漂々として波に漾《ただよ》えるがごとく顕《あらわ》る。続いて花の赤き同じ燈籠、中空《なかぞら》のごとき高処に出づ。また出づ、やや低し。なお見ゆ、少しく高し。その数|五個《いつつ》になる時、累々たる波の舞台を露《あらわ》す。美女。毛巻島田《けまきしまだ》に結う。白の振袖、綾《あや》の帯、紅《くれない》の長襦袢《ながじゅばん》、胸に水晶の数珠《じゅず》をかけ、襟に両袖を占めて、波の上に、雪のごとき竜馬《りゅうめ》に乗せらる。およそ手綱の丈を隔てて、一人|下髪《さげがみ》の女房。旅扮装《たびいでたち》。素足、小袿《こうちぎ》に褄《つま》端折りて、片手に市女笠《いちめがさ》を携え、片手に蓮華燈籠を提ぐ。第一点の燈《ともしび》の影はこれなり。黒潮騎士《こくちょうきし》、美女の白竜馬をひしひしと囲んで両側二列を造る。およそ十人。皆|崑崙奴《くろんぼ》の形相。手に手に、すくすくと槍《やり》を立つ。穂先白く晃々《きらきら》として、氷柱《つらら》倒《さかしま》に黒髪を縫う。あるものは燈籠を槍に結ぶ、灯《ともしび》の高きはこれなり。あるものは手にし、あるものは腰にす。
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女房 貴女《あなた》、お草臥《くたびれ》でございましょう。一息、お休息《やすみ》なさいますか。
美女 (夢見るようにその瞳を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く)ああ、(歎息す)もし、誰方《どなた》ですか。……私の身体《からだ》は足を空に、(馬の背に裳《もすそ》を掻緊《かいし》む)倒《さかさま》に落ちて落ちて、波に沈んでいるのでしょうか。
女房 いいえ、お美しいお髪《ぐし》一筋、風にも波にもお縺《もつ》れはなさいません。何でお身体《からだ》が倒などと、そんな事がございましょう。
美女 いつか、いつですか、昨夜《ゆうべ》か、今夜か、前《さき》の世ですか。私が一人、楫《かじ》も櫓《ろ》もない、舟に、筵《むしろ》に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕られて行《ゆ》く、私へ供養のためだと云って、船の左右へ、前後《あとさき》に、波のまにまに散って浮く……蓮華燈籠が流れました。
女房 水に目のお馴《な》れなさいません、貴女には道しるべ、また土産にもと存じまして、これが、(手に翳《かざ》す)その燈籠でございます。
美女 まあ、灯《あかり》も消えずに……
女房 燃えた火の消えますのは、油の尽きる、風の吹く、陸《おか》ばかりの事でございます。一度、この国へ受取りますと、ここには風が吹きません。ただ花の香の、ほんのりと通うばかりでございます。紙の細工も珠《たま》に替って、葉の青いのは、翡翠《ひすい》の琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》、花片《はなびら》の紅白は、真玉《まだま》、白珠《しらたま》、紅宝玉。燃ゆる灯《ひ》も、またたきながら消えない星でございます。御覧遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髪《ぐし》も乱れはしますまい。何で、お身体《からだ》が倒《さかさま》でございましょう。
美女 最後に一目《ひとめ》、故郷《ふるさと》の浦の近い峰に、月を見たと思いました。それぎり、底へ引くように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠の様な蒼《あお》い影を見て、胸を離れて遠くへ行《ゆ》く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途《ゆくて》にも、あれあれ、遥《はるか》の下と思う処に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。
女房 ああ、(望む)あの光は。いえ。月影ではございません。
美女 でも、貴方《あなた》、雲が見えます、雪のような、空が見えます、瑠璃色《るりいろ》の。そして、真白《まっしろ》な絹糸のような光が射《さ》します。
女房 その雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、これから貴女がお出《いで》遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎え申すのです。
美女 そして。参って、私の身体《からだ》は、どうなるのでございましょうねえ。
女房 ほほほ、(笑う)何事も申しますまい。ただお嬉しい事なのです。おめでとう存じます。
美女 あの、捨小舟《すておぶね》に流されて、海の贄《にえ》に取られて行《ゆ》く、あの、(※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す)これが、嬉しい事なのでしょうか。めでたい事なのでしょうかねえ。
女房 (再び笑う)お国ではいかがでございましょうか。私たちが故郷《ふるさと》では、もうこの上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。
美女 あすこまで、道程《みちのり》は?
女房 お国でたとえは煩《むず》かしい。……おお、五十三次と承ります、東海道を十度《とたび》ずつ、三百度、往還《ゆきかえ》りを繰返して、三千度いたしますほどでございましょう。
美女 ええ、そんなに。
女房 めした竜馬は風よりも早し、お道筋は黄金《こがね》の欄干、白銀の波のお廊下、ただ花の香りの中を、やがてお着きなさいます。
美女 潮風、磯《いそ》の香、海松《みる》、海藻《か
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