じめ》の、咽喉《のど》を刺す硫黄《いおう》の臭気《におい》と思いのほか、ほんに、清《すず》しい、佳《い》い薫《かおり》、(柔《やわらか》に袖を動かす)……ですが、時々、悚然《ぞっと》する、腥《なまぐさ》い香のしますのは?……
女房 人間の魂が、貴女を慕うのでございます。海月《くらげ》が寄るのでございます。
美女 人の魂が、海月と云って?
女房 海に参ります醜い人間の魂は、皆《みんな》、海月になって、ふわふわさまようて歩行《ある》きますのでございます。
黒潮騎士 (口々に)――煩《うるさ》い。しっしっ。――(と、ものなき竜馬の周囲を呵《か》す。)
美女 まあ、情《なさけ》ない、お恥《はずか》しい。(袖をもって面《おもて》を蔽《おお》う。)
女房 いえ、貴女は、あの御殿の若様の、新夫人《にいおくさま》でいらっしゃいます、もはや人間ではありません。
美女 ええ。(袖を落す。――舞台転ず。真暗《まっくら》になる。)――
女房 (声のみして)急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐《くろわに》、赤鮫《あかざめ》が襲います。騎馬が前後を守護しました。お憂慮《きづかい》はありませんが、いぎ参ると、斬合《きりあ》い攻合《せめあ》う、修羅の巷《ちまた》をお目に懸けねばなりません。――騎馬の方々、急いで下さい。
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燈籠一つ行《ゆ》き、続いて一つ行く。漂蕩《ひょうとう》する趣して、高く低く奥の方《かた》深く行く。
舞台|燦然《さんぜん》として明るし、前《ぜん》の琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]殿|顕《あらわ》る。
公子、椅子の位置を卓子《テエブル》に正しく直して掛けて、姿見の傍《かたわら》にあり。向って右の上座《かみざ》。左の方《かた》に赤き枝珊瑚《えださんご》の椅子、人なくしてただ据えらる。その椅子を斜《ななめ》に下《さが》りて、沖の僧都、この度は腰掛けてあり。黒き珊瑚、小形なる椅子を用いる。おなじ小形の椅子に、向って正面に一人、ほぼ唐代の儒の服装したる、髯《ひげ》黒き一|人《にん》あり。博士《はかせ》なり。
侍女七人、花のごとくその間を装い立つ。
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公子 博士、お呼立《よびたて》をしました。
博士 (敬礼す。)
公子 これを御覧なさい。(姿見の面《おもて》を示す。)
千仭《せんじん》の崕《がけ》を累《かさ》ねた、漆のような波の間を、幽《かすか》に蒼《あお》い灯《ともしび》に照らされて、白馬の背に手綱《たづな》したは、この度迎え取るおもいものなんです。陸に獅子《しし》、虎の狙うと同一《おなじ》に、入道鰐《にゅうどうわに》、坊主鮫《ぼうずざめ》の一類が、美女と見れば、途中に襲撃《おそいう》って、黒髪を吸い、白き乳を裂き、美しい血を呑《の》もうとするから、守備のために旅行さきで、手にあり合せただけ、少数の黒潮騎士を附添わせた。渠等《かれら》は白刃《しらは》を揃えている。
博士 至極《しごく》のお計《はから》いに心得まするが。
公子 ところが、敵に備うるここの守備を出払わしたから不用心じゃ、危険であろう、と僧都が言われる。……それは恐れん、私が居れば仔細《しさい》ない。けれども、また、僧都の言われるには、白衣《びゃくえ》に緋《ひ》の襲《かさね》した女子《おなご》を馬に乗せて、黒髪を槍尖《やりさき》で縫ったのは、かの国で引廻しとか称《とな》えた罪人の姿に似ている、私の手許《てもと》に迎入るるものを、不祥《ふしょう》じゃ、忌《いま》わしいと言うのです。
事実不祥なれば、途中の保護は他にいくらも手段があります。それは構わないが、私はいささかも不祥と思わん、忌わしいと思わない。
これを見ないか。私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一《おなじ》に、いよいよ清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴《さ》えて、いささかも窶《やつ》れない。憂えておらん。清らかな衣《きもの》を着、新《あらた》に梳《くしけず》って、花に露の点滴《したた》る装《よそおい》して、馬に騎した姿は、かの国の花野の丈《たけ》を、錦の山の懐に抽《ぬ》く……歩行《あるく》より、車より、駕籠《かご》に乗ったより、一層|鮮麗《あざやか》なものだと思う。その上、選抜した慓悍《ひょうかん》な黒潮騎士の精鋭|等《ども》に、長槍をもって四辺《あたり》を払わせて通るのです。得意思うべしではないのですか。
僧都 (頻《しきり》に頭《つむり》を傾く。)
公子 引廻しと聞けば、恥を見せるのでしょう、苦痛を与えるのであろう。槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った得意の人を馬に乗せて市《いち》を練って、やがて刑場に送って殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病《やまい》で死するより愉快でしょう。――それが何の刑罰になるのですか。陸と海と、国が違い、人情が違っても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想う。僧都は、うろ覚えながら確《たしか》に記憶に残ると言われる。……貴下《あなた》をお呼立した次第です。ちょっとお験《しら》べを願いましょうか。
博士 仰聞《おおせき》けの記憶は私《わたくし》にもありますで。しかし、念のために験べまするで。ええ、陸上一切の刑法の記録でありましょうか、それとも。
公子 面倒です、あとはどうでも可《い》い。ただ女子《おなご》を馬に乗せ、槍を立てて引廻したという、そんな事があったかという、それだけです。
博士 正史でなく、小説、浄瑠璃《じょうるり》の中を見ましょうで。時の人情と風俗とは、史書よりもむしろこの方が適当でありますので。(金光|燦爛《さんらん》たる洋綴《ようとじ》の書を展《ひら》く。)
公子 (卓子《テエブル》に腰を掛く)たいそう気の利いた書物ですね。
博士 これは、仏国の大帝|奈翁《ナポレオン》が、西暦千八百八年、西班牙《スペイン》遠征の途に上りました時、かねて世界有数の読書家。必要によって当時の図書館長バルビールに命じて製《つく》らせました、函入《はこいり》新装の、一千巻、一架《ひとたな》の内容は、宗教四十巻、叙事詩四十巻、戯曲四十巻、その他の詩篇六十巻。歴史六十巻、小説百巻、と申しまするデュオデシモ形《がた》と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君《おあねぎみ》、乙姫様が御工夫を遊ばしました。蓮《はす》の糸、一筋を、およそ枚数千頁に薄く織拡げて、一万枚が一折《ひとおり》、一百二十折を合せて一冊に綴《と》じましたものでありまして、この国の微妙なる光に展《ひら》きますると、森羅万象《しんらばんしょう》、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々《ひとつ》ずつ微細なる活字となって、しかも、各々《おのおの》五色の輝《かがやき》を放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読《くとう》、いずれも個々別々、七彩に照って、かく開きました真白《まっしろ》な枚《ペエジ》の上へ、自然と、染め出さるるのでありまして。
公子 姉上《あねうえ》が、それを。――さぞ、御秘蔵のものでしょう。
博士 御秘蔵ながら、若様の御書物蔵へも、整然《ちゃん》と姫様がお備えつけでありますので。
公子 では、私の所有ですか。
博士 若様はこの冊子と同じものを、瑪瑙《めのう》に青貝の蒔絵《まきえ》の書棚、五百|架《たな》、御所有でいらせられまする次第であります。
公子 姉があって幸福《しあわせ》です。どれ、(取って披《ひら》く)これは……ただ白紙だね。
博士 は、恐れながら、それぞれの予備の知識がありませんでは、自然のその色彩ある活字は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。
公子 恥入るね。
博士 いやいや、若様は御勇武でいらせられます。入道鰐《にゅうどうわに》、黒鮫《くろざめ》の襲いまする節は、御訓練の黒潮、赤潮騎士、御手の剣《つるぎ》でのうては御退けになりまする次第には参らぬのでありまして。けれども、姉姫様の御心づくし、節々は御閲読《ごえつどく》の儀をお勧め申まするので。
僧都 もろともに、お勧め申上げますでござります。
公子 (頷《うなず》く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。
博士 確《たしか》に。(書を披く)手近に浄瑠璃にありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本|浪華《なにわ》の町人、大経師以春《だいきょうじいしゅん》の年若き女房、名だたる美女のおさん。手代《てだい》茂右衛門《もえもん》と不義|顕《あらわ》れ、すなわち引廻し礫《はりつけ》になりまする処を、記したのでありまして。
公子 お読み。
博士 (朗読す)――紅蓮《ぐれん》の井戸堀、焦熱《しょうねつ》の、地獄のかま塗《ぬり》よしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長《たおさ》の田がりよし、野辺《のべ》より先を見渡せば、過ぎし冬至《とうじ》の冬枯の、木《こ》の間《ま》木の間にちらちらと、ぬき身の槍《やり》の恐しや、――
公子 (姿見を覗《のぞ》きつつ、且つ聴きつつ)ああ、いくらか似ている。
博士 ――また冷返《ひえかえ》る夕嵐、雪の松原、この世から、かかる苦患《くげん》におう亡日《もうにち》、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげしょう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒の入《いり》、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……
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侍女等、傾聴す。
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公子 ただ、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。
博士 まず、ト見えまするので。
僧都 さようでございます。
公子 馬に騎《の》った女は、殺されても恋が叶《かな》い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。
僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。
公子 それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭《かぶり》を掉《ふ》る。)博士――まだ他に例があるのですか。
博士 (朗読す)……世の哀《あわれ》とぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜《おし》まぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪《あし》き事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。……
公子 (眉を顰《ひそ》む。――侍女等|斉《ひと》しく不審の面色《おももち》す。)
博士 ……この女思込みし事なれば、身の窶《やつ》るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美《うる》わしき風情。……
公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。)
博士 中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限《かぎり》ある命のうち、入相《いりあい》の鐘つくころ、品《しな》かわりたる道芝の辺《ほとり》にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑《ひあぶり》に処せられまするまでを、確か江戸中|棄札《すてふだ》に槍《やり》を立てて引廻した筈《はず》と心得まするので。
公子 分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲《かなし》みなぞしたのですか。人に惜《おし》まれ可哀《あわれ》がられて、女それ自身は大満足で、自若《じじゃく》として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵《めぐみ》の杖《しもと》、情《なさけ》の鞭《むち》だ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図《ぐずぐず》に生存《いきなが》らえさせて、皺《しわ》だらけの婆《ばば》にして、その娘を終らせるが可《い》いと、私は思う。……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋《つな》いだ、燃草《もえぐさ》は夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子《ひがのこ》を燃え抜いた。緋の牡丹《ぼたん》が崩れるよ
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