り、虹《にじ》が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝《こ》って白玉《はくぎょく》となる、その膚《はだえ》を、氷った雛芥子《ひなげし》の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅《くれない》の珊瑚の中に、結綿《ゆいわた》の花を咲かせているのではないか。
 男は死ななかった。存命《ながら》えて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡《おす》の海月《くらげ》になった。――時々未練に娘を覗《のぞ》いて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白《なまじろ》く漾《ただよ》うて失《う》する。あわれなものだ。
 娘は幸福《しあわせ》ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身《ぬきみ》の槍の刑罰が馬の左右に、その誉《ほまれ》を輝かすと同一《おんなじ》に。――博士いかがですか、僧都。
博士 しかし、しかし若様、私《わたくし》は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだいささかも分らぬのでありまして。若様、唯今《ただいま》の仰《おお》せは、それは、すべて海の中にのみ留《とど》まりまするが。
公子 (穏和に頷《うなず》く)姉上も、以前お分りにならぬと言われた。その上、貴下《あなた》がお分りにならなければこれは誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違う。彼を迎える、道中のこの(また姿見を指《ゆびさ》す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思う。
僧都 唯今、仰《おお》せ聞けられ承りまする内に、条理《すじみち》は弁《わきま》えず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、ただ、黒潮の抜身《ぬきみ》で囲みました段は、別に忌わしい事ではござりませんように、老人にも、その合点参りましてござります。
公子 可《よし》、しかし僧都、ここに蓮華燈籠の意味も分った。が、一つ見馴《みな》れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。
僧都 はあ。(卓子《テエブル》に伸上る)はは、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠《じゆず》にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土《めいど》に参る心得のため、檀那寺《だんなでら》の和尚《おしょう》が授けましたのでござります。
公子 冥土とは?……それこそ不埒《ふらち》だ。そして仇光《あだびか》りがする、あれは……水晶か。
博士 水晶とは申す条、近頃は専ら硝子《ビイドロ》を用いますので。
公子 (一笑す)私の恋人ともあろうものが、無ければ可《い》い。が、硝子《ビイドロ》とは何事ですか。金剛石、また真珠の揃うたのが可い。……博士、贈ってしかるべき頸飾《えりかざり》をお検《しら》べ下さい。
博士 畏《かしこま》りました。
公子 そして指環《ゆびわ》の珠の色も怪しい、お前たちどう見たか。
侍女一 近頃は、かんてらの灯の露店《ほしみせ》に、紅宝玉《ルビイ》、緑宝玉《エメラルド》と申して、貝を鬻《ひさ》ぐと承ります。
公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚《なぎさ》に散った、あの貝が宝石か。
侍女二 錦襴《きんらん》の服を着けて、青い頭巾《ずきん》を被《かぶ》りました、立派な玉商人《たまあきんど》の売りますものも、擬《にせ》が多いそうにございます。
公子 博士、ついでに指環を贈ろう。僧都、すぐに出向うて、遠路であるが、途中、早速、硝子《ビイドロ》とその擬《まが》い珠《たま》を取棄てさして下さい。お老寄《としより》に、御苦労ながら。
僧都 (苦笑す)若様には、新夫人《にいおくさま》の、まだ、海にお馴《な》れなさらず、御到着の遅いばかり気になされて、老人が、ここに形を消せば、瞬く間ものう、お姿見の中の御馬の前に映りまする神通《じんずう》を、お忘れなされて、老寄に苦労などと、心外な御意を蒙りまするわ。
公子 ははは、(無邪気に笑う)失礼をしました。
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博士、僧都、一揖《いちゆう》して廻廊より退場す。侍女等|慇懃《いんぎん》に見送る。
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少し窮屈であったげな。
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侍女等親しげに皆その前後に斉眉《かしず》き寄る。
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性急な私だ。――女を待つ間《ま》の心遣《こころやり》にしたい。誰か、あの国の歌を知っておらんか。
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侍女三 存じております。浪花津《なにわづ》に咲くやこの花|冬籠《ふゆごもり》、今を春へと咲くやこの花。
侍女四 若様、私《わたくし》も存じております。浅香山を。
公子 いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を披《ひら》きつつ)女の国の東海道、道中の唄だ。何とか云うのだった。この書はいくらか覚えがないと、文字が見えないのだそうだ。(呟《つぶや》く)姉上は貴重な、しかし、少しあてっこすりの書をお拵《こしら》えになったよ。ああ、何とか云った、東海道の。
侍女五 五十三次のでございましょう、私《わたくし》が少し存じております。
公子 歌うてみないか。
侍女五 はい。(朗かに優しくあわれに唄う。)
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都路は五十路《いそじ》あまりの三つの宿、……
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公子 おお、それだ、字書のように、江戸紫で、都路と標目《みだし》が出た。(展《ひら》く)あとを。
侍女五 ……時得て咲くや江戸の花、浪|静《しずか》なる品川や、やがて越来《こえく》る川崎の、軒端《のきば》ならぶる神奈川は、早や程ヶ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫|匂《にお》う藤沢の、野面《のおも》に続く平塚も、もとのあわれは大磯《おおいそ》か。蛙《かわず》鳴くなる小田原は。……(極悪《きまりわる》げに)……もうあとは忘れました。
公子 可《よし》、ここに緑の活字が、白い雲の枚《ペエジ》に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教えてやろう。この歌で、五十三次の宿を覚えて、お前たち、あの道中双六《どうちゅうすごろく》というものを遊んでみないか。上《あが》りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人上って、双六の済む時分、ちょうど、この女は(姿見を見つつ)着くであろう。一番上りのものには、瑪瑙《めのう》の莢《さや》に、紅宝玉の実を装《かざ》った、あの造りものの吉祥果《きっしょうか》を遣《や》る。絵は直ぐに間に合ぬ。この室《へや》を五十三に割って双六の目に合せて、一人ずつ身体《からだ》を進めるが可《よ》かろう。……賽《さい》が要る、持って来い。
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(侍女六七、うつむいてともに微笑す)――どうした。
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侍女六 姿見をお取寄せ遊ばしました時。
侍女七 二人して盤の双六をしておりましたので、賽は持っておりますのでございます。
公子 おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順になって始めるが可《い》い。
侍女七 床へ振りましょうでございますか。
公子 心あって招かないのに来た、賽にも魂がある、寄越《よこ》せ。(受取る)卓子《テエブル》の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に従うて順に動くが可《い》い。さあ、集《あつま》れ。
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(侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはずれに集り、貴女《あなた》は一。私は二。こう口々に楽しげに取定《とりき》め、勇みて賽を待つ。)
可《い》いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戸塚へ行《ゆ》け。
(かくして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際に進み、他と、間《あわい》隔る。公子。これより前《さき》、姿見を見詰めて、賽の目と宿の数を算《かぞ》え淀《よど》む。……この時、うかとしたる体《てい》に書を落す。)
まだ、誰も上らないか。
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侍女一 やっと一人天竜川まで参りました。
公子 ああ、まだるっこい。賽を二つ一所に振ろうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等《ひとし》く其方《そなた》を凝視す。)
侍女五 きゃっ。(叫ぶ。隙《ひま》なし。その姿、窓の外へ裳《もすそ》を引いて颯《さっ》と消ゆ)ああれえ。
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侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫《さめ》が、鮫が、入道鮫が、と立乱れ騒ぎ狂う。
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公子 入道鮫が、何、(窓に衝《つ》と寄る。)
侍女一 ああ、黒鮫が三百ばかり。
侍女二 取巻いて、群りかかって。
侍女三 あれ、入道が口に銜《くわ》えた。
公子 外道《げどう》、外道、その女を返せ、外道。(叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》しつつ、窓より出でんとす。)
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侍女等|縋《すが》り留《とど》む。
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侍女四 軽々しい、若様。
公子 放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髪が溢《こぼ》れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙《きば》が喰入る。ええ、油断した。……骨も筋も断《き》れような。ああ、手を悶《もだ》える、裳《もすそ》を煽《あお》る。
侍女六 いいえ、若様、私たち御殿の女は、身《からだ》は綿よりも柔かです。
侍女七 蓮《はす》の糸を束《つか》ねましたようですから、鰐《わに》の牙が、脊筋と鳩尾《みずおち》へ噛合《かみあ》いましても、薄紙|一重《ひとえ》透きます内は、血にも肉にも障りません。
侍女三 入道も、一類も、色を漁《あさ》るのでございます。生命《いのち》はしばらく助りましょう。
侍女四 その中《うち》に、その中に。まあ、お静まり遊ばして。
公子 いや、俺の力は弱いもののためだ。生命《いのち》に掛けて取返す。――鎧《よろい》を寄越せ。
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侍女二人|衝《つ》と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後《うしろ》より颯《さっ》と肩に投掛く。
公子、上へ引いて、頸《うなじ》よりつらなりたる兜《かぶと》を頂く。角《つの》ある毒竜、凄《すさま》じき頭《かしら》となる。その頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾《すそ》を捌《さば》く。外套《がいとう》のごとく背より垂れて、紫の鱗《うろこ》、金色《こんじき》の斑点連り輝く。
公子、また袖を取って肩よりして自ら喉《のど》に結ぶ、この結びめ、左右一双の毒竜の爪なり。迅速に一縮す。立直るや否や、剣《つるぎ》を抜いて、頭上に翳《かざ》し、ハタと窓外を睨《にら》む。
侍女六人、斉《ひと》しくその左右に折敷き、手に手に匕首《あいくち》を抜連れて晃々《きらきら》と敵に構う。
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外道、退《ひ》くな。(凝《じつ》と視《み》て、剣の刃を下に引く)虜《とりこ》を離した。受取れ。
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侍女一 鎧をめしたばっかりで、御威徳を恐れて引きました。
侍女二 長う太く、数百《すひゃく》の鮫のかさなって、蜈蚣《むかで》のように見えたのが、ああ、ちりぢりに、ちりぢりに。
侍女三 めだか[#「めだか」に傍点]のように遁《に》げて行《ゆ》きます。
公子 おお、ちょうど黒潮等が帰って来た、帰った。
侍女四 ほんに、おつかい帰りの姉さんが、とりこを抱取って下すった。
公子 介抱してやれ。お前たちは出迎え。
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侍女三人ずつ、一方は闥《とびら》のうちへ。一方は廻廊に退場。
公子、真中《まんなか》に、すっくと立ち、静かに剣《つるぎ》を納めて、右手《めて》なる白珊瑚《しろさんご》の椅子に凭《よ》る。騎士五人廻廊まで登場
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