。親のために沈んだ身が蛇体になろう筈《はず》がない。遣《や》って下さい。故郷《くに》へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私の身が験《ため》したい。遣って下さい。故郷《くに》へ帰して下さい。
公子 大自在の国だ。勝手に行《ゆ》くが可《い》い、そして試すが可《よ》かろう。
美女 どこに、故郷《ふるさと》の浦は……どこに。
女房 あれあすこに。(廻廊の燈籠を指《ゆびさ》す。)
美女 おお、(身震《みぶるい》す)船の沈んだ浦が見える。(飜然《ひらり》と飛ぶ。……乱るる紅《くれない》、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯《さっ》と廻廊を突切《つッき》る。途端に、五個の燈籠|斉《ひと》しく消ゆ。廻廊暗し。美女、その暗中に消ゆ一舞台の上段のみ、やや明《あかる》く残る。)
公子 おい、その姿見の蔽《おおい》を取れ。陸《くが》を見よう。
女房 困った御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞台暗くなる。――やがて明《あかる》くなる時、花やかに侍女皆あり。)
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公子。椅子に凭《よ》る。――その足許《あしもと》に、美女倒れ伏す――疾《と》く既に帰り来《きた》れる趣。髪すべて乱れ、袂《たもと》裂け帯崩る。
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公子 (玉盞《ぎょくさん》を含みつつ悠然として)故郷はどうでした。……どうした、私が云った通《とおり》だろう。貴女の父の少《わか》い妾《めかけ》は、貴女のその恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲をもってその蛇を狙ったではありませんか。渠等《かれら》は第一、私を見てさえ蛇体だと思う。人間の目はそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いていては不可《いか》ん。
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美女|悲泣《ひきゅう》す。
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不可ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰《ひそ》む。)
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女房 (背を擦《さす》る)若様は、歎悲《かなし》むのがお嫌《きらい》です。御性急でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。
美女 ええ、貴女方は楽《たのし》いでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣死《
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