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公子 (爽《さわやか》に)獄屋ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少《きんしょう》の憂《うれい》あり、不平あるものさえ一日も一個《ひとり》たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果《はて》、陸の終《おわり》、思って行《ゆ》かれない処はない。故郷《ふるさと》ごときはただ一飛《ひととび》、瞬《まばた》きをする間《ま》に行《ゆ》かれる。(愍《あわれ》むごとくしみじみと顔を視《み》る)が、気の毒です。
 貴女にその驕《おごり》と、虚飾《みえ》の心さえなかったら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だった。貴女、これ。
 (美女顔を上ぐ。その肩に手を掛く)ここに来た、貴女はもう人間ではない。
美女 ええ。(驚く。)
公子 蛇身になった、美しい蛇《へび》になったんだ。
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美女、瞳を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
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その貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅《べに》、紫の鱗《うろこ》の光と、人間の目に輝くのみです。
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美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つつ、わななき震う。雪の指尖《ゆびさき》、思わず鬢《びん》を取って衝《つ》と立ちつつ)いいえ、いいえ、いいえ。どこも蛇にはなりません。一《い》、一枚も鱗はない。
公子 一枚も鱗はない、無論どこも蛇《へび》にはならない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼《まなこ》だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕《あらわ》す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云う声はただ、炎の舌が閃《ひらめ》く。吐《つ》く息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄《ゆおう》を流して草を爛《ただ》らす。長い袖は、腥《なまぐさ》い風を起して樹を枯らす。悶《もだ》ゆる膚《はだ》は鱗を鳴《なら》してのたうち蜿《うね》る。ふと、肉身のものの目に、その丈より長い黒髪の、三筋、五筋、筋を透《すか》して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思うが可《い》い。
美女 (髪みだるるまでかぶりを掉《ふ》る)嘘です、嘘です。人を呪《のろ》って、人を詛《のろ》って、貴方こそ、その毒蛇です
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