いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。余《あんま》り愛国心がないではないか。」
「いえ、全く、聞いたのは呻吟声《うめきごえ》ばかりで、見たのは繃帯《ほうたい》ばかりです。」
三
「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ? 可加減《いいかげん》なことをいへ。」
海野は苛立《いらだ》つ胸を押へて、務めて平和を保つに似たり。
看護員は実際その衷情《ちゅうじょう》を語るなるべし、聊《いささか》も飾気《かざりけ》なく、
「全く、知らないです。いつて利益になることなら、何|秘《かく》すものですか。また些少《ちっと》も秘さねばならない必要も見出さないです。」
百人長は訝《いぶ》かし気《げ》に、
「して見ると、何か、全然《まるで》無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。」
「別に聞いて見やうとも思はないでした。」
と看護員は手をその額《ひたい》に加へたり。
海野は仕込杖以て床《ゆか》をつつき、足蹈《あしぶみ》して口惜《くちおし》げに、
「無神経極まるじやあないか。敵情を探るためには斥候《せっこう》や、探偵《たんてい》が苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しやうとして、十に八、九は失敗《しくじ》るのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあつて、まるでうつちやツて、や、聞かうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」
と吐息して慨然たり。看護員は頸《うなじ》を撫《な》でて打傾《うちかたむ》き、
「なるほど、左様でした。閑《ひま》だとそんな処まで気が着いたんでしやうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかつたです。些少《ちっと》も準備が整はないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休む間《ひま》もない位で、夜の目も合はさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうして其処々《そこどころ》まで、手が廻るものですか。」
といまだいひも果《はて》ざるに、
「何だ、何だ、何だ。」
海野は獅子吼《ししぼえ》をなして、突立《つった》ちぬ。
「そりや、何の話だ、誰に対する何奴《どいつ》の言《ことば》だ。」
と噛着《かみつ》かむずる語勢なりき。
看護員は現在おのが身の如何《いか》に危険なる断崖《だんがい》の端《はし》に臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――否《いな》むしろ無邪気――の体《てい》にて、
「すべてこれが事実であるのです。」
「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝《おし》むで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身《ふんこつさいしん》をして、夜の目も合はさない、呼吸《いき》もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴《ちょうだい》する訳にはゆかんな。道理《もっとも》だ。」
といい懸けて、夢見る如き対手《あいて》の顔を、海野はじつと瞻《みまも》りつつ、嘲《あざ》み笑ひて、声太く、
「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君を措《お》いて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ一番《ひとつ》、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」
と口は和《やわ》らかにものいへども、胸に満《みち》たる不快の念は、包むにあまりて音《ね》に出《い》でぬ。
看護員は異議もなく、
「確かありましたツけ、お待ちなさい。」
手にせる鉛筆を納《おさむ》るとともに、衣兜《かくし》の裡《うち》をさぐりつつ、
「あ、ありました。」
と一通の書を取出して、
「なかなか字体がうまいです。」
無雑作《むぞうさ》に差出《さしいだ》して、海野の手に渡しながら、
「裂いちやあ不可《いけ》ません。」
「いや、謹《つつし》むで、拝見する。」
海野はことさらに感謝状を押戴《おしいただ》き、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳《さしかざ》しつ。声を殺し、鳴《なり》を静め、片唾《かたず》を飲みて群《むらが》りたる、多数の軍夫に掲げ示して、
「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。可《いい》か、支那人《チャンチャン》から礼をいつて寄越した文《ふみ》だぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓《あたま》を下げて、お辞儀をする者はない。殊《こと》に敵だ、われわれの敵たる支那人《チャンチャン》だ。支那人が礼をいつて捕虜《とりこ》を帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」
いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直
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