し、ぐるりと押廻して後背《うしろ》なる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長《たけたか》き人物あり。頭巾《ずきん》黒く、外套《がいとう》黒く、面《おもて》を蔽《おお》ひ、身躰《からだ》を包みて、長靴を穿《うが》ちたるが、纔《わずか》に頭《こうべ》を動かして、屹《きっ》とその感謝状に眼を注ぎつ。濃《こまや》かなる一脈《いちみゃく》の煙は渠《かれ》の唇辺《くちびる》を籠《こ》めて渦巻《うずま》きつつ葉巻《はまき》の薫《かおり》高かりけり。
四
百人長は向直《むきなお》りてその言《ことば》を続けたり。
「何と思ふ。意気地もなく捕虜《とりこ》になつて、生命《いのち》が惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、支那人《チャンチャン》の介抱《かいほう》をした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽して遣《や》つてな、それで生命を助かつて、阿容々々《おめおめ》と帰つて来て、剰《あまつさ》へこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」
といまだいひもはてざるに、満堂|忽《たちま》ち黙を破りて、哄《どっ》と諸声《もろごえ》をぞ立てたりける、喧轟《けんごう》名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、撲《なぐ》れと、衆口一斉|熱罵《ねつば》恫喝《どうかつ》を極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯|単身《みひとつ》なる看護員は、冷々然として椅子に恁《よ》りつ。あたりを見たる眼配《まくばり》は、深夜時計の輾《きし》る時、病室に患者を護りて、油断せざるに異《こと》ならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手を掉《ふ》りて頻《しき》りに一同を鎮《しず》むるにぞ、その命なきに前《さき》だちて決して毒手を下さざるべく、予《かね》て警《いまし》むる処やありけん、地踏※[#「韋+備のつくり」、第3水準1−93−84]《じだんだ》蹈《ふ》みてたけり立つをも、夥間《なかま》同志が抑制して、拳《こぶし》を押へ、腕を扼《やく》して、野分《のわけ》は無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子《ていぶる》の上に押遣りて、
「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが如彼《あんな》に騒ぐ。殺せの、撲れのといふ気組《きぐみ》だ。うむ、やつぱり取つて置くか。引裂《ひっさ》いて踏むだらどうだ。さうすりや些少《ちっと》あ念ばらしにもなつて、いくらか彼奴《あいつ》らが合点《がってん》しやう。さうでないと、あれでも御国《みくに》のためには、生命《いのち》も惜まない徒《てあい》だから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、可《いい》か。」
耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野が言《ことば》の途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜《かくし》に納まりぬ。
「取つたな。」と叫びたる、海野の声の普通《ただ》ならざるに、看護員は怪む如く、
「不可《いけ》ないですか。」
「良心に問へ!」
「やましいことは些少《ちっと》もないです。」
いと潔くいひ放《はな》ちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、譬《たと》ひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。
海野はその答を聞くごとに、呆《あき》れもし、怒りもし、苛立《いらだ》ちもしたりけるが、真個《しんこ》天真なる状《さま》見えて言《ことば》を飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひの渋《しぶり》がちにも、
「やましいことがないでもあるまい。考へて見るが可《いい》。第一敵のために虜《とりこ》にされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、何故《なぜ》切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、腸《はらわた》を掴《つか》み出して、敵のしやツ面《つら》へたたきつけて遣《や》るべき処だ。それも可《いい》、時と場合で捕はれないにも限らんが、撲《なぐ》られて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、呆《あき》れ果《はて》た腰抜だ。其上《それに》まだ親切に支那人《チャンチャン》の看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴《ふいちょう》もないもんだ。のみならず、一旦恥辱を蒙《こうむ》つて、われわれ同胞の面汚《つらよごし》をしてゐながら、洒亜《しあ》つくで帰つて来て、感状を頂《いただ》きは何といふ心得だ。せめて土産《みやげ》に敵情でも探つて来れば、まだ言訳
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