海城発電
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)垢着《あかつ》きたる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)富豪|柳氏《りゅうし》の家

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りたる眼
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       一

「自分も実は白状をしやうと思つたです。」
 と汚れ垢着《あかつ》きたる制服を絡《まと》へる一名の赤十字社の看護員は静に左右を顧《かえり》みたり。
 渠《かれ》は清国《しんこく》の富豪|柳氏《りゅうし》の家なる、奥まりたる一室に夥多《あまた》の人数《にんず》に取囲まれつつ、椅子《いす》に懸りて卓《つくえ》に向へり。
 渠を囲みたるは皆|軍夫《ぐんぷ》なり。
 その十数名の軍夫の中に一人|逞《たく》ましき漢《おのこ》あり、屹《き》と彼《か》の看護員に向ひをれり。これ百人長なり。海野《うんの》といふ。海野は年配《ねんぱい》三十八、九、骨太《ほねぶと》なる手足あくまで肥へて、身の丈《たけ》もまた群を抜けり。
 今看護員のいひ出《い》だせる、その言《ことば》を聴くと斉《ひと》しく、
「何! 白状をしやうと思つたか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けやうとしたんか。君。」
 いふ言《ことば》ややあらかりき。
 看護員は何気《なにげ》なく、
「左様《そう》です。撲《ぶ》つな、蹴《け》るな、貴下《あなた》酷《ひど》いことをするぢやあありませんか。三日も飯《めし》を喰はさないで眼も眩《くら》むでゐるものを、赤條々《はだか》にして木の枝へ釣《つる》し上げてな、銃の台尻《だいじり》で以て撲《なぐ》るです。ま、どうでしやう。余り拷問《ごうもん》が厳《きび》しいので、自分もつひ苦しくつて堪《たま》りませんから、すつかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思ひました。けれども、軍隊のことについては、何にも知つちやあゐないので、赤十字の方ならば悉《くわ》しいから、病院のことなんぞ、悉しくいつて聞かして遣《や》つたです。が、其様《そん》なことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろつて、益々酷く苛《さいな》むです。実は苦しくつて堪らなかつたですけれども、知らないのが真実《ほんとう》だからいへません。で、とうとう聞かさないでしまひましたが、いや、実に弱つたです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにやあ。何しろ、まるでもつて赤十字なるものの組織を解さないで、自分らを何がなし、戦闘員と同一《おんなじ》に心得てるです。仕方がありませんな。」
 とあだかも親友に対して身《み》の上《うえ》談話《ばなし》をなすが如く、渠《かれ》は平気に物語れり。
 しかるに海野はこれを聞きて、不心服《ふしんぷく》なる色ありき。
「ぢやあ何だな、知つてれば味方の内情を、残らず饒舌《しゃべ》ツちまう処《ところ》だつたな。」
 看護員は軽《かろ》く答へたり。
「いかにも。拷問が酷かつたです。」
 百人長は憤然《むっ》として、
「何だ、それでも生命《いのち》があるでないか、譬《たと》ひ肉が爛《ただ》れやうが、さ、皮が裂けやうがだ、呼吸《いき》があつたくらゐの拷問なら大抵《たいてい》知れたもんでないか。それに、苟《いやしく》も神州男児で、殊《こと》に戦地にある御互《おたがい》だ。どんなことがあらうとも、いふまじきことを、何、撲《なぐ》られた位で痛いといふて、味方の内情を白状しやうとする腰抜が何処《どこ》にあるか。勿論、白状はしなかつたさ。白状はしなかつたに違《ちがい》ないが、自分で、知つてればいはうといふのが、既に我が同胞《どうぼう》の心でない、敵に内通も同一《おんなじ》だ。」
 といひつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を一睨《いちげい》せり。
 看護員は落着|済《す》まして、
「いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては不可《いけ》ぬ、拷問《ごうもん》を堅忍して、秘密を守れといふ、訓令を請《う》けた事もなく、それを誓つた覚《おぼえ》もないです。また全く左様《そう》でしやう、袖《そで》に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一《おんなじ》取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく貴下方《あなたがた》にしても思懸《おもいがけ》はしないでせう。」
「戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気《のんき》なことをいやがんでい。」
 軍夫の一人つかつかと立懸《たちかか》りぬ。百人長は応揚《おうよう》に左手《ゆんで》を広げて遮《さえぎ》りつつ、
「待て、ええ、屁《へ》でもない喧嘩《けんか》と違うぞ。裁判だ。罪が極《きま》つてから罰することだ。騒ぐない。噪々《そうぞう》しい。」
 軍夫は黙して退《しりぞ》きぬ。
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