決意の色あり。
「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」
「出来ないです。余裕があれば綿繖糸《めんざんし》を造るです。」
応答はこれにて決せり。
百人長はいふこと尽きぬ。
海野は悲痛の声を挙げて、
「駄目だ。殺しても何にもならない。可《よし》、いま一ツの手段を取らう。権《ごん》! 吉《きち》! 熊《くま》! 一件だ。」
声に応じて三名の壮佼《わかもの》は群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を衣兜《かくし》にぬくめつつ、身動きもせで煙草《たばこ》をのみたる彼《か》の真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、渠《かれ》らを室外に出《いだ》しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人《みたり》の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人|後《うしろ》より背《せな》を推《お》して、端麗《たんれい》多く世に類なき一個清国の婦人の年少《としわか》なるを、荒けなく引立て来りて、海野の傍《かたえ》に推据《おしす》へたる、李花[#「李花」に丸傍点]は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、爾《しか》くこの室に出でたるも恐らくその日が最初《はじめて》ならむ、長き病《やまい》に俤《おもかげ》窶《やつ》れて、寝衣《しんい》の姿なよなよしく、簪《かんざし》の花も萎《しぼ》みたる流罪《るざい》の天女《てんにょ》憐《あわれ》むべし。
「国賊!」
と呼懸けつ。百人長は猿臂《えんぴ》を伸ばして美しき犠牲《いけにえ》の、白き頸《うなじ》を掻掴《かいつか》み、その面《おもて》をば仰《の》けざまに神崎の顔に押向けぬ。
李花[#「李花」に丸傍点]は猛獣に手を取られ、毒蛇《どくじゃ》に膚《はだ》を絡《まと》はれて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂《ゆうこん》半ば天に朝《ちょう》して、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたる頬《ほお》をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、俄《にわか》に総《そう》の身を震《ふる》はして、
「あ。」と一声血を絞《しぼ》れる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居《しりい》にはたと僵《たお》れたり。
看護員は我にもあらで衝《つ》とその椅子より座を立ちぬ。
百人長は毛脛《けずね》をかかげて、李花[#「李花」に丸傍点]の腹部を無手《むず》と蹈《ふ》まへ、ぢろりと此方《こなた》を流眄《しりめ》に懸けたり。
「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」
同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、李花[#「李花」に丸傍点]の手足を圧伏《おしふ》せぬ。
「国賊! これでどうだ。」
海野はみづから手を下《お》ろして、李花[#「李花」に丸傍点]が寝衣《しんい》の袴《はかま》の裾《すそ》をびりりとばかり裂《つんざ》けり。
八
時に彼《か》の黒衣《こくい》長身の人物は、ハタと煙管《きせる》を取落しつ、其方《そなた》を見向ける頭巾《ずきん》の裡《うち》に一双の眼《まなこ》爛々《らんらん》たりき。
あはれ、看護員はいかにせしぞ。
面《おもて》の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露《あら》はさで、渠はなほよく静《せい》を保ち、徐《おもむ》ろにその筒服《ズボン》を払ひ、頭髪のややのびて、白き額《ひたい》に垂れたるを、左手《ゆんで》にやをら掻上《かきあ》げつつ、卓《つくえ》の上に差置きたる帽を片手に取ると斉《ひと》しく、粛然《しゅくぜん》と身を起して、
「諸君。」
とばかり言ひすてつ。
海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の隙《ひま》より、真白く細き手の指の、のびつ、屈《かが》みつ、洩《も》れたるを、纔《わずか》に一目《ひとめ》見たるのみ。靴音|軽《かろ》く歩を移して、そのまま李花[#「李花」に丸傍点]に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆|疾《と》く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花[#「李花」に丸傍点]のなきがらぞ蒼《あお》かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩《かっぽ》坐中に動《ゆる》ぎ出《いで》て、燈火を仰ぎ李花[#「李花」に丸傍点]に俯《ふ》して、厳然として椅子に凭《よ》り、卓子《ていぶる》に片肱《かたひじ》附きて、眼光|一閃《いっせん》鉛筆の尖《さき》を透《すか》し見つ。電信用紙にサラサラと、
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月 日 海城《かいじょう》発
予は目撃せり。
日本軍の中には赤十字の義務を完《まっとう》して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心《てきがいしん》のために清国《てきこく》の病婦を捉《とら》へて、犯し辱《はずかし》めたる愛国
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