っさん》だ。だからもう皆《みんな》がうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おい奴《やっこ》さむ。お前お検《しらべ》の時もそのお談話《はなし》をなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体《もってえ》ねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けて遣《つか》はせとおつしやらあ、恐しい冥伽《みょうが》だぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと支那兵《チャンチャン》の介抱《かいほう》をして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、憎《にく》くてならねえ。支那《チャン》の探偵《いぬ》になるやうな奴は大和魂《やまとだましい》を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人《チャン》も同一《おんなじ》だ。どてツ腹あ蹴破《けやぶ》つて、このわたを引ずり出して、噛潰《かみつぶ》して吐出すんだい!」
「其処《そこ》だ!」と海野は一喝《いっかつ》して、はたと卓子《ていぶる》を一打《ひとうち》せり。かかりし間《あいだ》他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者《ぜっしゃ》の声を打消すばかり、熱罵《ねつば》を極めて威嚇《いかく》しつ。
楚歌《そか》一身に聚《あつま》りて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず眉宇《びう》一点の懸念《けねん》なく、いと晴々《はればれ》しき面色《おももち》にて、渠《かれ》は春昼《しゅんちゅう》寂《せき》たる時、無聊《むりょう》に堪《た》えざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、交《かわ》る交る投懸けては、その都度《つど》靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。
けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。
「其処《そこ》だ。」と今|卓子《ていぶる》を打てる百人長は大に決する処ありけむ、屹《きっ》と看護員に立向ひて、
「無神経でも、おい、先刻《さっき》からこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴《きょうど》である、国賊である、破廉恥、無気力の人外《にんがい》である。皆《みんな》が貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長は頷《うなず》きぬ。
「可《よし》、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、神崎愛三郎《かんざきあいさぶろう》。」
七
「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処《ここ》は一体|何処《どこ》だと思ふか。」
海野は太《いた》くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまわ》しながら、
「左様《さよう》、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」
「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」
顔に苔《こけ》むしたる髯《ひげ》を撫《な》でつつ、立ちはだかりたる身《み》の丈《たけ》豊かに神崎を瞰下《みお》ろしたり。
「此処はな、柳[#「柳」に丸傍点]が家だ。貴様に惚《ほ》れてゐる李花[#「李花」に丸傍点]の家だぞ。」
今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑《ほほえ》めり。
神崎は夢の裡《うち》なる面色《おももち》にてうつとりとその眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。
「ぼんやりするない。柳[#「柳」に丸傍点]が住居だ。女《むすめ》の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、故《わざ》と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は皆《みんな》追出してしまつて、李花[#「李花」に丸傍点]はわれわれの手の内のものだ。それだけ予《あらかじ》め断つて置く、可《いい》か。
さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば可《いい》、むしろ他《ほか》のことはしない方が当前《あたりまえ》だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦《たたかい》にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心《てきがいしん》を起すのは常業のない閑人《ひまじん》で、進《すすん》で国家に尽すのは好事家《ものずき》がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば可《いい》、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎《せん》じ詰めた処さういふのだな。」
神崎は猶予《ため》らはで、
「左様《さよう》、自分は看護員です。」
この冷かなる答を得え百人長は
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