。いざこざは面倒でさ。」
「撲《なぐ》つちまへ!」と呼ばるるものあり。
「隊長、おい、魂《たましい》を据《す》へて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
 と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと床板《ゆかいた》を踏鳴《ふみな》らす音ぞ聞こえたる。
 看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠は聊《いささか》も心に疚《や》ましきことなかりけむ、胸苦《むねぐる》しき気振《けぶり》もなく、静に海野に打向《うちむか》ひて、
「些少《ちっと》も良心に恥ぢないです。」
 軽く答へて自若《じじゃく》たりき。
「何、恥ぢない。」
 といひ返して海野は眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りたり。
「もう一度、屹《きっ》とやましい処はないか。」
 看護員は微笑《ほほえ》みながら、
「繰返すに及びません。」
 その信仰や極めて確乎《かっこ》たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて拳《こぶし》を握りつ。容易《たやす》くはものも得いはで唯、唯、渠《かれ》を睨《にら》まへ詰めぬ。
 時に看護員は従容《しょうよう》、
「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」
 いひ懸けて片頬《かたほ》笑《え》みつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、遁《に》げらるれば遁げるんですが、行《や》り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国《しんこく》だのといふ、左様《さよう》な名称も区別もないです。唯《ただ》病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。丁度《ちょうど》自分が捕虜《とりこ》になつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折《なおれ》になる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ躰面《たいめん
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