でも、姉《あね》さん、天と波と、上下《うえした》へ放れただ。昨夜《ゆうべ》、化鮫《ばけざめ》の背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽《たけ》の堂が目の果《はて》へ出て来ただよ。」
女房はほっとしたような顔色《かおつき》で、
「まあ、可《よ》かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」
「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」
「三十里、」
とまた驚いた状《さま》である。
「何だなあ、姉《あね》さん、三十里ぐれえ何でもねえや。
それで、はあ夜が明けると、黄色く環《わ》どって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴《やつ》だの、首のねえのだの、蝦蟇《がま》が呼吸《いき》吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡《から》まっているようなのだの、牛だの、馬だの、異形《いぎょう》なものが、影燈籠《かげどうろう》見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行《ゆ》くだね。」
十
「あとで、はい、理右衛門爺《りえむじい》さまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜《ゆうべ》ぐれえ執念深《しゅうねんぶけ》えあやかしの憑《つ》いた事はねえだって。
姉《あね》さん。
何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈《か》け出して失《う》せるだに、手許《てもと》が明《あかる》くなって、皆《みんな》の顔が土気色《つちけいろ》になって見えてよ、艪《ろ》が白うなったのに、舵《かじ》にくいついた、えてものめ、まだ退《の》かねえだ。
お太陽《てんとう》さまお庇《かげ》だね。その色が段々|蒼《あお》くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾《すそ》の方が水際で膨れたあ、蛭《ひる》めが、吸い肥《ふと》ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張《つっぱ》って、刎《は》ねてるだ。
まあ、めでてえ、と皆《みんな》で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物《きもの》が一枚出来たっぺい、あん時の鰹《かつお》さ、今年中での大漁だ。
舳《みよし》に立って釣らしった兄哥《あにや》の身《からだ》のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」
と暮れかかる蜘蛛《くも》の囲《い》の檐《のき》を仰いだ、奴《やっこ》の出額《おでこ》は暗かった。
女房もそれなりに咽喉《のど》ほの白う仰向《あおむ》いて、目を閉じて見る、胸の中《うら》の覚え書。
「じゃ何だね、五月雨時分《さみだれじぶん》、夜中からあれた時だね。
まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命《いのち》がけで飛込んでさ。
私はただ、波の音が恐しいので、宵から門《かど》へ鎖《じょう》をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。
どんな烈《はげ》しい浪が来ても裏の崖《がけ》は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打《ぶ》つかるごとに、崖と浪とで戦《いくさ》をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾《よく》にして、冷《つめた》いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。
そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊《ふなゆうれい》だのの中で、内の人は海から見りゃ木《こ》の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂《うなだ》れつつ、
「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫《ひとしずく》、ほろりとして、
「済まないねえ。」
奴《やっこ》は何の仔細《しさい》も知らず、慰め顔に威勢の可《い》い声、
「何も済まねえッて事《こた》アありやしねえだ。よう、姉《あね》さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥《あにや》がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。
そのかわり今もいっけえよ。兄哥《あにや》のために姉さんが、お膳立《ぜんだ》てしたり、お酒買ったりよ。
おら、酒は飲まねえだ、お芋で可《い》いや。
よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡《なび》きます、あれは何ぞと問うたれば」
と、いたいけに手をたたき、
「石々《いしいし》合わせて、塩|汲《く》んで、玩弄《おもちゃ》のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚《た》くわいのだ。……よう姉《あね》さん、」
奴《やっこ》は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、
「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」
女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、
「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」
と調子をかえて、心ありげに呼びかける。
十一
「ああ、」
「あのね、私は何も新しい衣物《きもの》なんか欲《ほし》いとは思わないし、坊やも、お菓子も用《い》らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他《ほか》の商売にしておくれな、姉《ねえ》さん、お願いだがどうだろうね。」
と思い入ったか言《ことば》もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。
奴《やっこ》は遊び過ぎた黄昏《たそがれ》の、鴉《からす》の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上《うわ》つき、
「姉《あね》さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」
「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」
とそわそわするのを圧《おさ》えていったが、奴《やっこ》はよくも聞かないで、
「姉《あね》さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽《たけ》から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊《どろぼう》をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。
姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」
と烏の下で小さく躍る。
「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人《おっと》[#ルビの「おっと」は底本では「をっと」]の帰る嬉しさに、何事も忘れた状《さま》で、女房は衣紋《えもん》を直した。
「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。
五六里の処、嗅《か》ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙《ねら》うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。
やあ、見さっせえ、また十五六羽|遣《や》って来た、沖の船は当ったぜ。
姉《あね》さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」
舌打の高慢さ、
「おらも乗って行《ゆ》きゃ小遣《こづかい》が貰《もれ》えたに、号外を遣って儲《もう》け損なった。お浜ッ児《こ》に何にも玩弄物《おもちゃ》が買えねえな。」
と出額《おでこ》をがッくり、爪尖《つまさき》に蠣殻《かきがら》を突ッかけて、赤蜻蛉《あかとんぼ》の散ったあとへ、ぼたぼたと溢《こぼ》れて映る、烏の影へ足礫《あしつぶて》。
「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」
黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、
「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他《ほか》の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。
奴《やっこ》ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、
「何だって、漁師を止《や》めて、何だって、よ。」
「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐《こわ》いじゃないか。
内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家《うち》へ入って窘《すく》んでいても、向うが強ければ捉《つか》まえられるよ。お浜は嬰児《あかんぼ》だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」
としみじみいうのを、呆《あき》れた顔して、聞き澄ました、奴《やっこ》は上唇を舌で甞《な》め、眦《めじり》を下げて哄々《くっくっ》とふき出《いだ》し。
「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚《うお》が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行《ある》いて、鰭《ひれ》で棹《さお》を持つのかよ、よう、姉《あね》さん。」
「そりゃ鰹《かつお》や、鯖《さば》が、棹を背負《しょ》って、そこから浜を歩行《ある》いて来て、軒へ踞《しゃが》むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲《す》んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」
と女房は早や薄暗い納戸の方《かた》を顧みる。
十二
「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」
とうら寂しげな夕間暮《ゆうまぐれ》、生干《なまび》の紅絹《もみ》も黒ずんで、四辺《あたり》はものの磯《いそ》の風。
奴《やっこ》は、旧《もと》来た黍《きび》がらの痩《や》せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径《こみち》を見返り、
「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈《がすとう》でも点《つ》けるだよ、兄哥《あにや》もそれだから稼ぐんだ。」
「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀《かわい》そうだから、号外屋でも何んでもいい、他《ほか》の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可《い》いかい、解《わか》ったの、三ちゃん。」
と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉《からす》も頷《うなず》き顔。
「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈《か》けまわるだ、帰ったら一番、爺様《じいさま》と相談すべいか、だって、お銭《あし》にゃならねえとよ。」
と奴《やっこ》は悄乎《しょ》げて指を噛《か》む。
「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然《いきなり》そんな事をいっちゃ不可《いけな》いよ、まあ、話だわね。」
と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板《はりいた》をそっと撫《な》で、
「慾張ったから乾き切らない。」
「何、姉《あね》さんが泣くからだ、」
と唐突《だしぬけ》にいわれたので、急に胸がせまったらしい。
「ああ、」
と片袖《かたそで》を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。
「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」
三之助はまた笑い、
「海から魚が釣りに来ただよ。」
「あれ、厭《いや》、驚《おど》かしちゃ……」
お浜がむずかって、蚊帳《かや》が動く。
「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚《おど》かすもんだから、」
と片頬《かたほ》に莞爾《にっこり》、ちょいと睨《にら》んで、
「あいよ、あいよ、」
「やあ、目を覚《さま》したら密《そっ》と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻《さっき》から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲《くね》る。
「お逢《あ》いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」
と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳《ほろがや》の前で身動《みじろ》ぎした。
「おっと、」
奴《やっこ》は縁に飛びついたが、
「ああ、跣足《はだし》だ姉《あね》さん。」
と脛《すね》をもじもじ。
「可《いい》よ、お上りよ。」
「だって、姉《あね》さんは綺麗《きれい》ずきだからな。」
「構わないよ、ねえ、」
と
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