いって、抱き上げた児《こ》に頬摺《ほおずり》しつつ、横に見向いた顔が白い。
「やあ、もう笑ってら、今泣いた烏《からす》が、」
と縁端《えんはし》に遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、
「ほんとに騒々しい烏だ。」
と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽《たけ》の堂を流れて出た、一団の雲の正中《ただなか》に、颯《さっ》と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。
「三ちゃん、」
「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧《おさ》えべい。」
「まあ、遊んでおいでよ。」
と女房は、胸の雪を、児《こ》に暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。
十三
「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰《もら》い、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父《とっ》さんがお帰りだね。」
と顔に顔、児《こ》にいいながら縁へ出て来た。
おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外――号外――とうら寂しい。
「おや、もういってしまったんだよ。」
女房は顔を上げて、
「小児《こども》だねえ」
と独りでいったが、檐《のき》の下なる戸外《おもて》を透かすと、薄黒いのが立っている。
「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此奴《こいつ》、」
と小児《こども》に打《ぶ》たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退《すさ》った。
檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧《もうろう》として頭《つむり》の円い、袖の平たい、入道であった。
女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。
時に身じろぎをしたと覚《おぼ》しく、彳《たたず》んだ僧の姿は、張板《はりいた》の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護《まも》られた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞《ふさ》いで立った。背高き形が、傍《わき》へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条《ひとすじ》海の空に残っていた。良人《おっと》が乗った稲葉丸は、その下あたりを幽《かすか》な横雲。
それに透《すか》すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠《や》せたか、肥えたか知らぬけれども、窪《くぼ》んだ目の赤味を帯びたのと、尖《とが》って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方《うみて》へ続いて、且つその背のあたりが連《しき》りに息を吐《つ》くと見えて、戦《わなな》いているのである。
心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁《あさ》るべく海から顕《あら》われたとは、余り目《ま》のあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。
けれども、厭《いや》な、気味の悪い乞食坊主《こじきぼうず》が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥《たんす》の傍《そば》なる暗い隅へ、横ざまに片膝《かたひざ》つくと、忙《せわ》しく、しかし、殆《ほと》んど無意識に、鳥目《ちょうもく》を。
早く去《い》ってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此方《こなた》に控えながら、
「はい、」
という、それでも声は優しい女。
薄黒い入道は目を留めて、その挙動《ふるまい》を見るともなしに、此方《こなた》の起居《たちい》を知ったらしく、今、報謝をしようと嬰児《あかご》を片手に、掌《て》を差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭《つむり》を下に垂れたまま、緩《ゆる》く二ツばかり頭《かぶり》を掉《ふ》ったが、さも横柄《おうへい》に見えたのである。
また泣き出したを揺《ゆす》りながら、女房は手持無沙汰《てもちぶさた》に清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、
「何ですね、何が欲《ほし》いんですね。」
となお物貰《ものもら》いという念は失《う》せぬ。
ややあって、鼠《ねずみ》の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。
指すとともに、ハッという息を吐《つ》く。
渠《かれ》飢えたり矣。
「三ちゃん、お起きよ。」
ああ居てくれれば可《よ》かった、と奴《やっこ》の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。
十四
強盗《ごうとう》に出逢《であ》ったような、居もせぬ奴《やっこ》を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸《どうき》は一倍高うなる。
女房は連《しき》りに心急《こころせ》いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃《めしびつ》を引寄せて、及腰《およびごし》に手桶《ておけ》から水を結び、効々《かいがい》しゅう、嬰児《ちのみ》を腕《かいな》に抱いたまま、手許も上《うわ》の空で覚束《おぼつか》なく、三ツばかり握飯《にぎりめし》。
潮風で漆の乾《から》びた、板昆布《いたこぶ》を折ったような、折敷《おしき》にのせて、カタリと櫃を押遣《おしや》って、立てていた踵《かかと》を下へ、直ぐに出て来た。
「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」
今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻《さっき》口を指したまま、鱗《うろこ》でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮《はずみ》か、冴《さえ》か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹《かに》を潰《つぶ》した渋柿に似てころりと飛んだ。
僧はハアと息が長い。
余《あまり》の事に熟《じっ》と視《み》て、我を忘れた女房、
「何をするんですよ。」
一足|退《の》きつつ、
「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」
と屹《きっ》といったが、腹立つ下に心弱く、
「御坊《おぼう》さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。
それでは御膳《おぜん》にしてあげましょうか。
そうしましょうかね。
それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児《こども》に世話が焼けますのに、入相《いりあい》で忙《せわ》しいもんですから。……あの、茄子《なす》のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」
薄暗がりに頷《うなず》いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、
「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」
勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固《かたま》って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。
これにギョッとして立淀《たちよど》んだけれども、さるにても婦人《おんな》一人。
ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間《ま》ももどかしく、良人《おっと》の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜《くやし》かったけれども、目を瞑《ねむ》って、やがて嬰児《ちのみ》を襟に包んだ胸を膨《ふく》らかに、膳を据えた。
「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可《いけ》ません、ようござんすか。」
と茶碗に堆《うずたか》く装《も》ったのである。
その時、間《ま》の四隅を籠《こ》めて、真中処《まんなかどころ》に、のッしりと大胡坐《おおあぐら》でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆《くつがえ》った。
「あれえ、」
と驚いて女房は腰を浮かして遁《に》げさまに、裾《すそ》を乱して、ハタと手を支《つ》き、
「何ですねえ。」
僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中《うち》にも袖で庇《かば》った、女房の胸をじりりとさしつつ、
(児《こ》を呉《く》れい。)
と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。
我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋《とりすが》って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷《つめた》くなっていた。
こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁《すなど》る海の幸よ。
その夜はやがて、砂白く、崖《がけ》蒼《あお》き、玲瓏《れいろう》たる江見の月に、奴《やっこ》が号外、悲しげに浦を駈《か》け廻って、蒼海《わたつみ》の浪ぞ荒かりける。
[#地から1字上げ]明治三十九年(一九〇六)年一月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月30日発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング