たくるようについて来るだ。」
「………………」
「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下《うえした》に底澄《そこず》んで、遠いのが耳について聞えるだ。」
七
「何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ漕《こ》いで来るだがね。
傍《そば》へ来られてはなんねえだ、と艪《ろ》づかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、不可《いけね》え。
向うも、ふわふわと疾《はや》くなるだ。
こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打《うっ》ちゃらかして、おさえて突立《つった》ってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳《へさき》の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形《なり》に円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。婦人《おんな》がな、裾《すそ》を拡げて、膝《ひざ》を立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。
おらあ、わい、というて、艪を放した。
そん時だ、われの、顔は真蒼《まっさお》だ、そういう汝《おめえ》の面《つら》は黄色いぜ、と苫《とま》の間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通ったよ。
奴《やっこ》、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、此家《こん》の兄哥《あにや》が、いわっしゃるで、どうするもんか。おら屈《かが》んでな、密《そっ》とその火を見てやった。
ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。」
「えッ、何さ、何さ、三ちゃん、」と忙《せわ》しく聞いて、女房は庇《ひさし》の陰。
日向《ひなた》の奴《やっこ》も、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。
「何だかちっとも分らねえが、赤目鰒《あかめふぐ》の腸《はらわた》さ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。
どす赤いんだの、うす蒼《あお》いんだの、にちにち舳《みよし》の板にくッついているようだっけ。
すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに颯《さっ》とのして、一浪《ひとなみ》で遠くまで持って行った、どこかで魚《うお》の目が光るようによ。
おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷《すべ》り出した。胴の間じゃ寂《ひっそ》りして、幽かに鼾《いびき》も聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平《たいら》になっただから、おらも息を吐《つ》いたがね。
えてものめ、何が息を吐かせべい。
アホイ、アホイ、とおらが耳の傍《はた》でまた呼ばる。
黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。
厭《いや》だからな、聞くまいとして頭あ掉《ふ》って、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に憑《つ》いて火を呼ぶだとよ。
波が平《たいら》だで、なおと不可《いけね》え。火の奴《やつ》め、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の睾丸《きんたま》八畳敷《はちじょうじき》よ。
そこら一面、波が黄色に光っただね。
その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。
あやかし火について、そんな晩は、鮫《さめ》の奴が化けるだと……あとで爺《じい》さまがいわしった。
そういや、目だっぺい。真赤《まっか》な火が二つ空を向いて、その背中の突先《とっさき》に睨《にら》んでいたが、しばらくするとな。いまの化鮫《ばけざめ》めが、微塵《みじん》になったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな魚《うお》が、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。唐《から》の海だか、天竺《てんじく》だか、和蘭陀《オランダ》だか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。」と奴《やっこ》は一息に勇んでいったが、言《ことば》を途切らし四辺《あたり》を視《なが》めた。
目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄《すすき》の葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅《くれない》なる。
八
「そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈《かが》んだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴《やつ》め、ぶらぶらと裾《すそ》に泡を立てて、いきをついて畝《うね》って来て、今度はおらが足の舵《かじ》に搦《から》んで、ひらひらと燃えただよ。
おらあ、目を塞いだが、鼻の尖《さき》だ。艫《とも》へ這上《はいあが》りそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪《ろ》をつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷《ふなべり》さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉《あね》さん、金色になって光るなら、金《かね》の船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。
時々|煙《けむ》のようになって船の形が消えるだね。浪が真黒《まっくろ》に畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。
おら一生懸命に、艪で掻《かき》のめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦人《おんな》の裾が巻きついたようにも見えれば、爺《じじい》の腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟鱇《あんこう》が、腹の中へ、白張提灯《しらはりぢょうちん》鵜呑《うの》みにしたようにもあった。
こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈《ふ》んだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺《りえむじい》さまがいわっしゃる。ええ、引《ひっ》からまって点《とも》れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と滅入《めい》った声で松公がそういっけえ。
奴《やっこ》や。
ひゃあ。
そのあやし火の中を覗《のぞ》いて見ろい、いかいこと亡者《もうじゃ》が居らあ、地獄の状《さま》は一見えだ、と千太どんがいうだあね。
小児《こども》だ、馬鹿をいうない、と此家《ここ》の兄哥《あにや》がいわしっけ。
おら堪《たま》んなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい恐怖《こわ》くって泣き出したあだよ。」
いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が褪《あ》せていた。
「苫《とま》を上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗中《くらやみ》へ出さしった。
おれに貸せ、奴《やっこ》寝ろい。なるほどうっとうしく憑《つ》きやあがるッて、ハッと掌《てのひら》へ呼吸《いき》を吹かしったわ。
一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真直《まっすぐ》に空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ天窓《あたま》[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を上げて視《なが》めるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに真黒《まっくろ》な小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。
おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。
どこだも知んねえ海の中に、船さただ一|艘《そう》で、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて暴風雨《あらし》が来ようというだに、活《い》きて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。」
女房は引入れられて、
「まあ、ねえ、」とばかり深い息。
奴《やっこ》は高慢に打傾き、耳に小さな手を翳《かざ》して、
「轟《ごう》――とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日|天窓《あたま》から被《かぶ》ったようだね。
うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを汲《く》み出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。
苫《とま》も何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、天窓《あたま》から水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで突立《つった》ったわ、手を上げると袖の中から、口い開《あ》くと咽喉《のど》から湧《わ》いて、真白《まっしろ》な水柱《みずばしら》が、から、倒《さかさま》にざあざあと船さ目がけて突蒐《つっかか》る。
アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。」
九
「その時さ、船は八丁艪《はっちょうろ》になったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。
やっぱりおなじ処に、舵《かじ》についた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して煙《けむ》が吹いて消える工合《ぐあい》よ、すッ飛んじゃするすると浮いて行《ゆ》く。
難有《ありがて》え、島が見える、着けろ着けろ、と千太が喚《わめ》く。やあ、どこのか船も漕《こ》ぎつけた、島がそこに、と理右衛門爺《りえむじい》さま。直《じき》さそこに、すくすくと山の形さあらわれて、暗《やみ》の中|突貫《つきぬ》いて大幅な樹の枝が、※[#「さんずい+散」、288−10]のあいだに揺《ゆす》ぶれてな、帆柱さ突立《つった》って、波の上を泳いでるだ。
血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは石塊《いしころ》一ツある処じゃねえ。暗礁《かくれいわ》へ誘い寄せる、連《つれ》を呼ぶ幽霊船《ゆうれいぶね》だ。気を確《たしか》に持たっせえ、弱い音《ね》を出しやあがるなッて、此家《こん》の兄哥《あにや》が怒鳴るだけんど、見す見す天竺《てんじく》へ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸《おか》へ上《あが》って呼吸《いき》が吐《つ》きたい、助け船――なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥|真直《まっすぐ》に突立って、ぶるッと身震《みぶるい》をさしっけえよ、突然《いきなり》素裸《すっぱだか》になっただね。」
「内の人が、」と声を出して、女房は唾《つ》を呑《の》んだ。
「兄哥《あにや》がよ。おい。
あやかし火さ、まだ舵に憑《つ》いて放れねえだ、天窓《あたま》から黄色に光った下腹へな、鮪縄《まぐろなわ》さ、ぐるぐると巻きつけて、その片端《かたはじ》を、胴の間の横木へ結《ゆわ》えつけると、さあ、念ばらしだ、娑婆《しゃば》か、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄哥《あにや》が、渾名《あだな》に呼ばれた海雀《うみすずめ》よ。鳥のようにびらりと刎《は》ねたわ、海の中へ、飛込むでねえ――真白《まっしろ》な波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ――駈上《かけあが》るだ。
百尋《ひゃくひろ》ばかり束《つか》ね上げた鮪縄の、舷《ふなべり》より高かったのがよ、一掬《ひとすく》いにずッと伸《の》した! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗《のぞ》くのやら、反りかえって、睨《にら》むのやら、口さあげて威《おど》すのやら、蔽《おお》わりかかって取り囲んだ、黒坊主の立《たち》はだかっている中へ浪に揉《も》まれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。
やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打《ぶッ》つける暗礁《かくれいわ》があるばかりだ、迷うな、ッていわしった。
お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆《みんな》握拳《にぎりこぶし》で拝んだだがね。
坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。
急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。
ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆《みんな》くそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太陽《てんとう》さまが上《あが》らっしたが、そこ
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