」
「何こんなものを。」
とあとへ退《すさ》り、
「いまに解きます繻子《しゅす》の帯……」
奴《やっこ》は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏《あしぶみ》して、
「わい!」
日向《ひなた》へのッそりと来た、茶の斑犬《ぶち》が、びくりと退《すさ》って、ぱっと砂、いや、その遁《に》げ状《ざま》の慌《あわただ》しさ。
四
「状《ざま》を見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。」
と呵々《からから》と笑って大得意。
「吃驚《びっくり》するわね、唐突《だしぬけ》に怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」
はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵《かかと》を、清くこぼれた褄《つま》にかけ、片手を背後《うしろ》に、あらぬ空を視《なが》めながら、俯向《うつむ》き通しの疲れもあった、頻《しきり》に胸を撫擦《なでさす》る。
「姉《あね》さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸《やしき》に、褄を引摺《ひきず》っていたんだから駄目だ、意気地はねえや。」
女房は手拭を掻《か》い取ったが、目《ま》ぶちのあたりほんのりと、逆上《のぼ》せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、
「厭《いや》な児《こ》だよ、また裾《すそ》を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」
「錦絵《にしきえ》の姉様《あねさま》だあよ、見ねえな、皆《みんな》引摺ってら。」
「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」
「いまに解きます繻子《しゅす》の帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ不可《いけ》ねえや、ああ、お浜ッ児《こ》はこうは育てたくないもんだ。」と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。
女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。
「ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?」
「あれはッて?」と目をぐるぐる。
「だって、源次さん千太さん、理右衛門爺《りえもんじい》さんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、粋《いき》な小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに鯔《ぼら》と改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠《こ》められておいでじゃないか。何でも、恐《こわ》いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向《まむき》に見られて、奴《やっこ》は、口をむぐむぐと、顱巻《はちまき》をふらりと下げて、
「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。
「見たが可《い》い、ベソちゃんや。」
と思わず軽く手をたたく。
「だって、だって、何だ、」
と奴《やっこ》は口惜《くや》しそうな顔色で、
「己《おら》ぐらいな年紀《とし》で、鮪船《まぐろぶね》の漕《こ》げる奴《やつ》は沢山《たんと》ねえぜ。
ここいらの鼻垂《はなったら》しは、よう磯《いそ》だって泳げようか。たかだか堰《せき》でめだかを極《き》めるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒《ふな》を遣《や》るだ。
浪打際といったって、一畝《ひとうね》り乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽《たけ》の堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様《てんとうさま》は真蒼《まっさお》だ。姉《あね》さん、凪《なぎ》の可《い》い日でそうなんだぜ。
処を沖へ出て一つ暴風雨《しけ》と来るか、がちゃめちゃの真暗《まっくら》やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」
と肩を怒らして大手を振った、奴《やっこ》、おまわりの真似《まね》して力む。
「じゃ、何《なん》だって、何だってお前、ベソ三なの。」
「うん、」
たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻《はちまき》をいじくりながら、
「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」
五
「あれさ、ちょいと、用がある、」
と女房は呼止める。
奴《やっこ》は遁《に》げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附《こしつき》で、
「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」
「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待《まち》ッてばねえ。」
衝《つ》と身を起こして追おうとすると、奴《やっこ》は駈出《かけだ》した五足《いつあし》ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞《しゃが》み、立った女房の前垂《まえだれ》のあたりへ、円い頤《あご》、出額《おでこ》で仰いで、
「おい、」という。
出足へ唐突《だしぬけ》に突屈《つッかが》まれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉《よろめ》いた。
「何だねえ、また、吃驚《びっくり》するわね。」
「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」
「ああ、可《い》いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」
「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、瞬《またたき》した、目が渋そう。
「不可《いけ》ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」
「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」
「だって姉《あね》さん、ベソも掻かざらに。夜一夜《よっぴて》亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門《りえむ》なんざ、己《おら》がベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
女房はそれかあらぬか、内々|危《あやぶ》んだ胸へひしと、色変るまで聞咎《ききとが》め、
「ええ、亡念の火が憑《つ》いたって、」
「おっと、……」
とばかり三之助は口をおさえ、
「黙ろう、黙ろう、」と傍《わき》を向いた、片頬《かたほ》に笑《えみ》を含みながら吃驚《びっくり》したような色である。
秘《かく》すほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、
「可《い》いとも、沢山《たんと》そうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」
と肩を引いて、身を斜め、捩《ねじ》り切りそうに袖《そで》を合わせて、女房は背向《そがい》になンぬ。
奴《やっこ》は出る杭《くい》を打つ手つき、ポンポンと天窓《あたま》をたたいて、
「しまった! 姉《あね》さん、何も秘すというわけじゃねえだよ。
こんの兄哥《あにき》もそういうし、乗組んだ理右衛門|徒《でえ》えも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖《こわ》がるッていうからよ。」
「だから、皆《みんな》で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可《い》じゃないかね。」
「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌《しゃべ》ったって、皆《みんな》にいっちゃ不可《いけね》えだぜ。」
「誰が、そんなことをいうもんですか。」
「お浜ッ児《こ》にも内証だよ。」
と密《そっ》と伸上ってまた縁側から納戸の母衣蚊帳《ほろがや》を差覗《さしのぞ》く。
「嬰児《あかんぼ》が、何を知ってさ。」
「それでも夢に見て魘《うな》されら。」
「ちょいと、そんなに恐怖《こわ》い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。
「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉《あね》さん、この五月、三日流しの鰹船《かつおぶね》で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。
野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩《おそ》めに夕飯を食ったあとでよ。
昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆《みんな》胴の間《ま》へもぐってな、そん時に千太どんが漕《こ》がしっけえ。
急に、おお寒い、おお寒い、風邪《かぜ》揚句《あげく》だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫《とも》からドンと飛下りただ。
船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸《おか》へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」
女房は打頷《うちうなず》いた襟さみしく、乳《ち》の張る胸をおさえたのである。
六
「晩飯の菜に、塩からさ嘗《な》め過ぎた。どれ、糠雨《ぬかあめ》でも飲むべい、とってな、理右衛門《りえむ》どんが入交《いれか》わって漕《こ》がしつけえ。
や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫《とも》で爺《じッ》さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓《あたま》から褞袍《どてら》被《かぶ》ってころげた達磨《だるま》よ。
ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽《かすか》に呼ばる声がするだね。
どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。
来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気《せんき》がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞《しゃが》まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時《こはんとき》でまた理右衛門|爺《じい》さまが潜っただよ。
われ漕《こ》げ、頭痛だ、汝《きさま》漕げ、脚気《かっけ》だ、と皆《みんな》苦い顔をして、出人《でて》がねえだね。
平胡坐《ひらあぐら》でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家《ここ》の兄哥《あにや》が、奴《やっこ》、汝《てめえ》漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴《やっこ》は顱巻《はちまき》の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、
「いきなり艫《とも》へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷《すべ》るというもんだ。
どッこいな、と腰を極《き》めたが、ずッしりと手答えして、槻《けやき》の大木根こそぎにしたほどな大《おおき》い艪《ろ》の奴《やつ》、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行《ある》くようで、底が轟々《ごうごう》と沸《に》えくり返るだ。
ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗《まっくら》な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。
西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝《うね》ると同一《おんなじ》に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。
その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒《まっくろ》な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。
やあ、火が点《とも》れたいッて、おらあ、吃驚《びっくり》して喚《わめ》くとな、……姉《あね》さん。」
「おお、」と女房は変った声音《こわね》。
「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間《ま》で、苫《とま》の下でいわっしゃる。
また、千太がね、あれもよ、陸《おか》の人魂《ひとだま》で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生|逢《あ》わねえというんだが、十三で出っくわした、奴《やつ》は幸福《しあわせ》よ、と吐《こ》くだあね。
おらあ、それを聞くと、艪《ろ》づかを握った手首から、寒くなったあ。」
「……まあ、厭《いや》じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖《こわ》いわねえ。」
とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然《ぞっ》とする。奴《やっこ》の顔色、赤蜻蛉《あかとんぼ》、黍《きび》の穂も夕づく日。
「そ、そんなくれえで、お浜ッ児《こ》の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。
炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。
姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形《かた》だんべい、おらが天窓《あたま》より高くなったり、船底へ崖《がけ》が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇のの
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